東直子『いつか来た町』PHP研究所

 「どんなに文明が発達しても、どんなに高い建物を空へ空へとのばしても、空に蓋をすることはできない。」(p.63)

 だから地下へもぐって空を閉ざそうとするのでしょうか。

 『いつか来た町』は東直子さんがかつて訪ねた町について書かれたエッセイ集です。街の名前や目にしたものから連想が始まる。その連想を象る言葉がしっくりくるもので、読んでいて「あぁ、今自分は日本語を読んでいる」という感慨がじわっと溢れてくる本でした。

 色々な連想をめぐらせられるほどの町を訪ねたことはありません。でも、本を読んでいて色々なことを考えたり思い出したりはする。家の近所を散歩したり、通勤の道すがらでも似たようなことは起こります。旅が多くなくても、本を読むことが代わりになっているのでしょうか。

 「自宅ではない場所で見たニュース映像は、脳の表面にコーティングされたみたいに、やけに印象が強いまま残る。」(p.194)

 長野五輪をTVで見たのは病院でだった。競技が行われる場所へ観客を輸送するシャトルバスを待つ人たちとそこに吹きつける雪の映像がとても記憶に残っています。自分の体調のしんどさを他人が耐えているであろう寒さに重ねていたのかもしれません。

 「現在の自分にとっての過去の自分は、この世にすでに存在しないが、お互いに干渉しあうのだ。」(p.25)

 あの日見たTVの画像に限らず、自分の過去に起こった諸々は澱のように沈んでいて何かの拍子に浮かんできて現在の自分の考えや見方に影響する。

 「私が今まで自分の身体を通して生み、残してきた言葉もすべて、なんらかの供養なのではないかと思えてくる。」(p.71)

 この本を読んでいるときの感じが何かに似ているなと考えていました。バスや電車の車窓から風景を眺めているときの思考の流れに似ているような気がします。ちょうどいい温度の湯船にたゆたっているようでもある。でも、上に引用した数箇所からはその感じが窺われません。この本の良さは部分ではなく、全体の流れなのかもしれません。言葉のつながり、流れが鎮められた時間を与えてくれます。

 東直子さんが書かれた他の本を是非とも読みたくなる、そんな本でした。