永幡嘉之『巨大津波は生態系をどう変えたか:生きものたちの東日本大震災』講談社ブルーバックス

 「自然環境の『豊かさ』が回復したかどうかは、単に生き物が増えたかどうかではなく、歴史時間のなかで形成された地域独自の生態系にどれだけ戻ったかという尺度で判断されるべきものだ。」(p.116)

 題名にはっきりと「巨大津波は」と書かれているのに、なぜか私はこの本に書かれているのは放射能の動植物への影響だと思い込んでいました。きっと『チェルノブイリの森』という本のことが頭にあって、そのイメージに引きずられていたためだと思います。

 「天敵という天敵がほとんど消えていた津波跡地は、アブラムシにとって別天地だった。」(p.104)

 ここでいう「天敵」は文字通りのものですが、『チェルノブイリの森』では、放射能汚染によって人間がいなくなったことが逆に動植物の繁栄にとってプラスになっている側面が描かれていました。

 『チェルノブイリの森』の著者も原発事故という大惨事の結果できた自然発生的な野生保護区のようなものを認めるように感じたり考えたりすることに戸惑いを覚えていましたが、永幡さんも人間が大変な時に自然や動植物について気持ちを向けてしまうことにためらいを感じています。

 「ビニールハウスを完膚なきまでになぎ倒してできた水たまりに咲いていた花を美しいと表現することにはためらいがあった。」(p.209)

 でも、そういった不謹慎さを感じながらも、そこで動植物のことを省いてしまうのは結局、人間に対してもマイナスに働くのではないかという想いが著者の調査を促しているように感じられます。

 「根拠のない楽観論は、それが人命や生活に関わることであれば糾弾されるが、動植物の消息は生活には直接の関係がない。だから現実には、動植物についての調査はほとんど行わないまま『大丈夫だろう』とする意見が少なからずまかり通っていた。」(p.52)

 この本を読んでいて私は哀しさを感じました。それは、仮に自分が同じ光景を目にしたとしても、その意味合いに気づけない、理解できないと思うためです。例えば、掲載されている写真を見ても私は緑が戻ってきていると思ってしまいます。でも、永幡さんは、生えている植物が違っていることから何がダメになり(そのおかげで)何が栄えてきているかを看取しています。

 『チェルノブイリの森』でも著者に同行していた植物学者の説明を読みながら、素人目には分からないことでも確かに痕跡は残るし、仮に隠蔽しようとする存在がいたとしても、その存在も知識を持っていなければその「暴露」に気づけない、知っているということの力強さと知らないということの哀しさを感じました。

 『沈黙の春』という有名な本がありますが、沈黙を「聞く」ことができるのは、その逆である喧噪や雄弁を知っていてこそだと思わせられます。