黒川創『いつか、この世界で起こっていたこと』新潮社

 この本は短編集で以下のお話が収録されています。「うらん亭」「波」「泣く男」「チェーホフの学校」「神風」「橋」。

 「後悔とはそういうものだろう。彼らは、そのときの自分の本心を知っているからこそ、それを悔いたりもするんだろう。」(「泣く男」p.115)

 いずれの話も、東日本大震災、核、津波放射線といったあの出来事に関するものとつながっています。

 「ここで、それを思いとどまれる道もあるかという問いは、一種のファンタジーなのだろうか?」(「泣く男」p.117)

 「泣く男」の中では、広島や長崎に落とされた原爆製造に関して考えている登場人物がいます。

 そんな中、一番印象的だったのは「神風」でした。

 このお話を読むまで神風の由来が元寇時の台風だということを忘れていました。このお話が印象的なのは、その中で展開されている神風のアナロジーのためです。

 『チェルノブイリの森』という本があります。原発事故後のチェルノブイリの植生を中心に記述された本です。単純に知識が乏しいからかもしれませんが、放射能に汚染された土地では人間が住めないことから動植物も繁殖しづらいのではないか、と考えてしまいます。でも、そこで記されているものは違っていました。

 「あの大惨事から何かいいものが生じることもあるという考え方について、私は複雑な気持ちにおそわれた。それでも、放射能に汚染された自然保護区は、いいものなのか、それともいけないものなのか、よくわからない。」(『チェルノブイリの森』p.276)

 「神風」の中で展開されている考えもこれに少し似ていると思います。東日本大震災と福島の原発事故は惨事だけれども、風向きによってはもっと酷いことになっていた可能性もあると「神風」の登場人物は考えています。

 「神風は、ときどき、吹くことは吹く。けど、それは、たいてい、人に気づかれることがないまま、通りすぎていくものなんじゃないかと思ったり。」(「神風」p.213)

 もしも、チェルノブイリの事故が自然の繁栄にとっていいものだったのだと言い切ってしまえば、それは被害に遭われた方に対して無神経すぎるでしょう。同じように、「神風」の登場人物のように考えることは、被災者の被害の程度を軽んじるものに聞こえたり受け取られると思います。

 このお話を読みながら私はもうひとつのことを思い出していました。それは昔、TVで放映されていたノーマ・フィールドさんとある女性との対談のようなものです。記憶が間違っていなければ、ある女性は在日米軍人と日本人女性との子で、父が母と出会ったのは、太平洋戦争の結果、米軍が日本に駐留することとなったからで、そう考えると、自分の生はあの戦争の「おかげで」あることとなり、では多くの死者を出し(立場によっては間違い誤りだったとされ)たものの結果だということをどう受け入れればいいのか、という葛藤を抱えているように見受けられました。

 「神風」の中で触れられるそれまでは知らなかった人と人の出会いはそういった流れの中にあるとは思うのですが、上に書いたようなことをどう受け止めればいいのか、正直いって戸惑います。だから、次の言葉が響いてくるのかもしれません。

 「サラエヴォで床について眠られぬ夜を過ごす者は、サラエヴォの夜の声を聞くことができる。」(「神風」p.215)