スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『死に魅入られた人びと』群像社

 「なんだってこの事件の話を聞こうとするんですか。この死を理解できる者がいるもんですか。」(p.103)

 おかえりなさい。

 この7文字を読んだ時に思い描く映像があるとして、それは帰ってきた人でしょうか、それとも「おかえりなさい」と言った人でしょうか。つまり、文字を読んだ時に自動的に立っているのは言う側でしょうか、言われる側でしょうか。

 辛島美登里さんに「Jealousy」という歌があります。歌い出しが「おかえりなさい」で始まる曲です。なにかのラジオでご自身がこの曲は聞く人が男性か女性かで全く違ったものになる、という主旨のことをおっしゃっていました。「Jealousy」は不倫している男性の帰りを迎えた女性が視点の歌です。最初は性別で曲が違ったものになるという意味がよく分かりませんでした。女性が視点であることはハッキリしていると思っていたからです。でも、ある時、「おかえりなさい」を聞いたときに映像として「見ている」人の性別に気づきました。女性がこの歌を聴いたなら、「見える」のは男性の姿。男性なら自分を迎えてくれる女性の姿。

 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチによる『死に魅入られた人びと』はインタビュー集で「ソ連崩壊と自殺者の記録」という副題が示すように、自殺にまつわるお話が収録されています。

 「スターリンの没後に生まれた人たちは、もう人間がちがうんです。この国では、世代と世代の境目がズレているんです。」(p.75)

 「まったくバカだぜ!ここでじっとして、アメリカのアクション映画を見てるやつらなんて。いまじゃ、だれだって航空券を買ってほんものの戦争に行くことができる。ちょっくら見物できるんだ。」(p.201)

 「あの時代に生きていた。あの時代に生きていたことが、とつぜんぼくらのせいになった。」(p.241)

 ソ連、というものについての知識が乏しいため、インタビューに答えている方々の背景がよく読み取れず、自分の中になかなか入っていかない印象を持って読み進めていきました。

 アレクシエーヴィチさんの本は前に『チェルノブイリの祈り』を読んだことがあります。その本でも似たような入っていきづらさを感じたのですが、この『死に魅入られた人びと』を読んでいて逆にその入っていきづらさの効果のようなもののことを考えました。

 インタビューなので、実際の場面では著者が何かを話者に問いかけてそれに話者は答えているはずです。でも、この本ではインタビュアーは透明な存在になっている。「なんだってこの事件の話を聞こうとするんですか」という問いかけもそれだけが文字になり、問われている著者(インタビュアー)は表に出てこない。「メディアリテラシー」にかぶれた身には、こういった著者の零度のようなものが孕む問題が想起されます。

 でも、この本を読んでいて自分の頭の中に描かれる画を思ってみると、それは著者とインタビューに答えている人という2人ではなくて、インタビューに答えている人ひとりの映像です。本当は話者は著者に語っているのに、読者に直に語っているように感じられる。違うな。直に語っているように感じられるのは、読者が著者の視点に立たされるから。そこで消えているのは著者ではなく、読者の「私」。話者は依然として著者へ語っているのだけれど、読者は著者として聞いてしまう、というような。そして、それは話者が予め読者に伝わることを念頭に置いた上で語るのとは違ったもののように感じられます。

  もしも、自分自身が知らない人から話を伺う場合も似たような状況に置かれるのかもしれない。自分が知らない文脈や過去、経験を持つ人が語る話はそれらを共有しない身にとっては掴みにくいものなのかもしれない。ただ、その話を聞くうちに逆にそのバックグラウンドとなっている「もの」の存在が明瞭になってくる。

 インタビュアーの姿が見えなくなっていることが、内容に対する彼女の影響(語弊を恐れずに言えば操作)を隠蔽する可能性はあるけれども、この本に関してはそのことが逆に、彼女にはそう見えた・聞こえたということを正しく伝えているようで不思議な感じがします。