赤坂真理『東京プリズン』河出文庫

 学生の頃、フランスからの留学生が帰国するということで懇親会のようなものが開かれました。彼女は多分、大学院へ留学してきていたはず。当時、ただの学部生だった自分がどういういきさつでその席にいたのか思い出せません。ただ、受け入れ先の研究室の先生がこう言ったことは記憶に残っています。一人の人に一国を代表するかのような質問をし応答を期待するのは酷ではないか。一語一句この通りではありませんでしたが、主旨としてはそういう内容でした。

 「日本の学校になじめずアメリカの高校に留学したマリ。(略)進級をかけたディベートが課される。それは日本人を代表して『天皇の戦争責任』について弁明するというものだった。」(裏表紙の紹介より)

 この本の紹介を読んだ時、その懇親会のことを思い出しました。懇親会での話題は「天皇の戦争責任」ほど論争的(controversial)なものではなかったと思います。でも、フランス人と日仏の例えば文化的な違いについて話をするとしたら、相手はフランスについて全て「分かっている」と前提してしまう。では、逆の立場でもっとタフな話題を扱わなければいけないとしたら。

 上に挙げた紹介はミスリーディングなものだと、読み終わって思います。「『天皇の戦争責任』について弁明する」となっていますが、実際に主人公に課せられたのは「天皇に戦争責任があった」ことの証明です。『広辞苑』などを引いてアリバイをつくりたくもなりますが、「弁明」という言葉のニュアンスはニュートラルなものでしょうか。むしろ、申し開きをする、どちらかと言えばネガティブなことをそうではないと説明することを指すように思います。

 「東京裁判をもしやり直したいと思う者がいたならそれは日本人であって、アメリカ人じゃない。と私は思った。」(p.413)

 追及に対して主人公が一人で代表として向かうのではなく、主人公自身が追及する側に立たされる。逆に戦争責任がなかったと主張する側にはアメリカ人がついています。

 「日本について何を勉強すればいいのか、誰にも訊くことができない。」(p.126)

 準備の過程で主人公は母国の歴史について自分が何もしらないことに気づきます。その理由の一つとして学校の歴史では(教科書に記述があるものの)時間切れで戦争のことはほとんど扱われないためだと作中で主人公は考えています。

 このディベートが行われている舞台は1980年頃です。戦後35年くらいの時期です。現実の現在は2014年。その倍ぐらいの時間が流れています。歴史の授業は変わったのでしょうか。

 「あなた方の慣習に従ったまでです。従わせておいて意味を持たせないでください、卑怯です。」(p.469)

 ディベートという形式に則る以上、肯定・否定側に分かれ自分の思想信条とは別に自分が属する側が勝つように論をはらなければなりません。でも、何も知らない主人公は白か黒かをつけるのではなく、知ろうとしてしまう。二分法からこぼれていく方向へ進んでしまう。

 誰かが間違っているからといって、別の誰かが即正しいことにはならない。逆に誰かが正しいからといって、別の誰かが即間違っているとは限らない。

 「自分たちの過ちを見たくないあまりに、他人の過ちにまで目をつぶってしまったことこそ、私たちの負けだったと、今は思います。」(p.526)

 正直に言ってこの本に書かれていることを十分に理解はできませんでした。特に主人公が時折見る幻覚のような箇所。時間を飛び越える際の小道具としてなぜ電話が使われるのか(映画『マトリックス』との関連は?)。度々登場する「リトル・ピープル」という言葉(村上春樹さんの『1Q84』と関係はあるのか?)。

 ただ、感じたのは「天皇の戦争責任」という話題になったときに無意識に前提・想定しているものの存在でした。明確なルールはないけれども、ここまでは言ってもいい、言ってもいいけれどこの視点・立場ではダメ、これは触れてはならない、といったことがまるで蜘蛛の巣のように網を張っていて、それに絡め取られてしまう。

 「私は主体ではない。私は客体でもない。私は、通訳だ。すべての個体は通訳なのだ」(p.501)

 話題が自分の外から設定されることで主人公が対峙せざるを得なくなったものとの格闘の中からその「もの」の姿が浮かび上がってくるように感じられました。