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山崎まゆみ『白菊:伝説の花火師・嘉瀬誠次が捧げた鎮魂の花』小学館

 子どもの頃、一緒にTVを観ていた叔母がぽつんと言いました。「花火だったんだね」。放映されていたのはアーノルド・シュワルツネッガー主演の『プレデター』でした。

 『プレデター』では主人公たちが任務で潜入した先で未知の生命体に襲われます。記憶違いでなければ、終盤、その敵が飛び道具(火器)を乱射するシーンがあったはず。その爆発にさまざまな色がついていました。今から思えば、その場面は火薬と炎色反応の結果で特別「花火」だったわけでもないと思うのですが、叔母はそれを花火と形容しました。そのとき私の中に刷り込まれたのは、『プレデター』に出てくるエイリアンは「花火を武器として使った」という認識でした。

 『白菊』のことはあるブログの記事で知りました。この記事を読みながら考えていたのは、戦争や人殺しの道具として使用されるものと同根のものを使って人を感動させたり、美しさを感じさせたりできるのなら、それは反戦や批判の形として痛烈なものと成りえるのではないか、ということでした。

 「みんなが爆弾なんてつくらないで、きれいな花火ばかりつくっていたら、きっと戦争なんて起きなかったんだな」(p.43)

 『家族が語る山下清:夢みる清の独り言』という本に出てくる山下清の言葉として引用されています。現実を視ていないナイーブな言葉だとして一笑に付されるでしょうか。でも、この本を実際に読む前に自分が考えていたことがシンプルな言葉に凝縮されていて、とても印象に残る言葉です。

 でも、嘉瀬さん自身にそういった想いがあったわけではないと思います。嘉瀬さんの「白菊」という花火は元々は鎮魂のためのものでした。シベリア抑留で亡くなった戦友へ手向けるための。なので、「平和への祈り」という意味合いで打ち上げを依頼された時は、応じながらも違和感を感じています。

 「誰に上げるんだいね。おら、テレビのインタビューではさ、何を喋ればいいかわからん。」(p.234)

 この本を読みながら、嘉瀬さんの花火には意味が込められているのだろうか、主張のような外へ向かっていくようなものが本当はあるのだろうか、それは外から見ている者が勝手に詰め込もうとしているだけで、嘉瀬さんの花火はそういったものとは全然違うのではないのだろうか、と常に考えさせられていました。

 「あれだけ空襲で酷い目にあった長岡の人達は、なぜ、また花火なんでしょうかね。わたしは、正直、花火があまり好きじゃない。あの日の、長岡空襲を思い出しますからね」(p.228)

 半藤利一さんと嘉瀬さんの対談に触れている部分で半藤さんは上のように言っています。

 ここで脱線しますが、私ははやぶさが地球に還ってきた時のことを思い出していました。小惑星イトカワからサンプルを採取したはやぶさは試料が入ったカプセルを放出した後、大気圏突入で燃え尽きました。その光は見る人に感動を与えるものだったと思います。でも、それと同時にあの場所でああやって散っていくシーンは、ある人達にとってはショッキングで嫌な過去を連想させたり思い出せたりしはしないのだろうか、とも考えていました。

 スペースシャトル、チャレンジャーやコロンビアの乗員の遺族です。

 火薬は人殺しにも花火にも使える。私が感動を覚えたはやぶさの輝点は人にとっては忌まわしいものだったかもしれない。『白菊』を読む前に私が感じていたような主張を含む花火は、半藤さんのような記憶を持つ方にとっては、刃のようなものかもしれない。でも、この本を読む限り、嘉瀬さんの花火はそういった切先を持っていないように感じる。それはどうしてなのか。

 「花火ってのはね、”わー、きれいな・・・”つとさ、無になれるんですいね。花火を見てる間は、みんないろんなことを忘れられるんです。」(p.228)

 上に挙げた半藤さんの疑問に応えた嘉瀬さんの言葉です。嘉瀬さんの花火には想いは乗っているけれど、主張、とりわけ大声で声を荒げるようなものはきっと含まれていない。寡黙な職人気質という常套句がぴったりはまるようなもの。それは祈りと呼ばれるものに似ているような気がします。