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松本剛『略奪した文化』岩波書店

 アンドリュー・ブルームという人の『インターネットを探して』という本があります。インターネットの物理的な側面に注目し、ケーブルやサーバーのつながりを物体として追いかけた本です。

 私がその本を読んだのは、ちょうど遠隔操作ウィルスの事件が騒がれている頃でした。そこで犯人と疑われている人が該当のウィルスを作るだけの能力があるのかどうか、というお話もメディアを流れていたように記憶しています。そこで考えていたのは、もしも、自分があるコンピュータの中にあるデータを壊そうと思ったなら、ウィルスを作ったりハッキングする能力はないので、金属バット類でデータが入っているハードウェアをボコボコに破壊するのが手っ取り早いな、ということでした。もちろん、コンピュータのハードについての知識も乏しいので、筐体だけ破壊して肝心な部分は仕損じる可能性大ですが。

 どうでしょうか、ソフト面で知能によって相手を破壊するのではなくて、ハード面で力づくで壊そうとするのは、スマートではない印象を与えないでしょうか。でも、方法としてはありうる。そういえば、住基ネットが稼働する前の報道で、データを保存するハードがどこにあるかはセキュリティ上の理由で秘匿されている、という内容のものを読んだ記憶もあります。

 『インターネットを探して』はそれほど話題にならなかった印象があります。でも、その本で書かれていた場所、文字通りの場所はそれこそ爆破するなり物理的な暴力によってダメージを与えられれば、非常に大きな損害につながるように思えて、さらっと書かれているけれど、実はヤバイことが書かれているのではないのか、と思いながら読みました。

 さて、そんなことを思い出したのは、『略奪した文化』で図書の移動についてたくさん書かれていたためです。例えば、いわゆる15年戦争の過程で日本軍の侵攻にともなって中国内の大学があるものは西へあるものは南へ移動していったことに触れられます。

 「日本軍の侵略を逃れ、また抗戦をするために、大学は奥地や南方へと移転していったが、教員や学生は比較的容易に移動できても、図書の移動はなまやさしいことではなかった。」(p.132)

 経験がない人にはピンとこないということを最近、実感したのですが、本しかも大量の本の移動は非常に厄介な仕事です。文章にして描写してしまえばほんの2,3文で済んでしまうことでも、実際にかかった労力を思うと、相当大変だったことがうかがえます。しかも、戦時下で敵から逃れながら。

 そう考えると、電子化が進んだ現在、あの戦争と同規模の世界大戦が起こったとしたら、データや資料の移動はどのような形をとるのか、あるいは情報の「略奪」はどのようにして行われるのか、ということをどうしても考えてしまいます。

 また、奪われる側もどのように守り逃れようとするのでしょうか。

 『略奪した文化』では図書が移動することだけではなく、焚書についてもページが割かれています。奪われるだけなら、当然いいことではないけれど、少なくとも資料は形として残る(「図書館人のなかには、略奪図書の保管状況がよかったといって感謝されたことでもって、略奪そのものが免罪されたかのように感じている人もいるようにみえる。」p.241)。でも、燃やされてしまったら、何もなくなってしまう。

 「日本の図書館は、このようにアメリカ軍の空爆を受けて次から次へと焼けていったが、それはまったく一九三七年の夏以降に中国の図書館が日本軍の空爆で焼かれた状況そのままであった。」(p.160)

 最近、たまたまある歌手の方のMVを見ました。その中では歌っている人が本を突き飛ばしたり、びりびりに破いたり、様々な狼藉を働く演出が繰り返し繰り返し出てきます。私が本に親しみを持っているからかもしれませんが、そういったシーンは非常に衝撃的です。本を突き飛ばす度、破りさる度、なにか大切なものを踏みにじっているように見えてしまいます。

 そういった嫌悪を感じるシーンが現実の中でいくつも起こっていたというイメージは、これまで自分が戦争に対して持っていた人命が失われることへの嫌悪とは若干違った種類の印象で戦争を認識することに繋がりました。

 図書館の防火設備がスプリンクラーではなく、二酸化炭素であることを指して人命より本が優先される、と言われることもあります。人の命と本とどちらが大切かと問われれば、今この場では人の命だと答えることができます。

 でも、どちらが大切かという話ではなく、中国から奪った日本が敗戦後、連合国(アメリカ)に奪われたように、戦争ということになれば、図書の奪い合いが起きる。何を今更、と言われれてしまうかもしれないけれど、そういった側面でのイメージはこれまで自分の中で強くありませんでした。

 情報の電子化が進んでいれば、そういった情報(=図書や文書、記録)の移動といった部分、奪い奪われるといった部分の不可視化が進んだりしないのでしょうか。もし、見えない部分が増えるとしたら、この本を読んで認識を新たにした戦争のイメージも薄れることにならないのかな、と思います。

 「図書を略奪され、文化を破壊されたという記憶は個人が持つのみではない。それは傷つけられた学問・科学そのもののなかに、学問の不均等発展として刻み付けられ、そのような形で他ならぬ学問や科学自身が記憶し続けるのである。」(p.269)