朽木祥『光のうつしえ』講談社

 "Every photograph is a certificate of presence."(by Roland Barthes in Camera Lucida)

 

 「うつしえって?」

 「写真のこと」(p.53)

 『光のうつしえ』は灯籠流しのシーンからはじまります。

 「灯籠流しを初めて見たとき、不謹慎に聞こえるかもしれませんが、なんという美しい慰霊の習慣であろうか、と思いました。」(p.152)

 私もこの登場人物と同じように感じたことがありました。そして、同じようにそう感じる自分のことを不謹慎だ、と思いました。そう思う理由には、自分が「当事者」ではない、という後ろめたさもきっと関係しています。

 流れていく灯籠の背後にはひとつひとつそれを流した人の想いがあるはず。それを知らない自分が美しさを感じている。

 「加害者になるな。犠牲者になるな。そしてなによりも傍観者になるな」(p.166)

 主人公たちの美術の先生の言葉は矛先を私に向けてきます。美しさを感じられるのは「傍観者」だから。

 「あれは誰の灯籠なんだろう」(p.9)

 主人公たちは原爆投下から25年が過ぎた広島を生きる中学生です。教育や家族との会話の中で教えられてきた知識としての8月6日。身近な存在である美術教師にも、あの日大きく変わってしまったものがたりがあったことを知ります。それは知識とは異なり実感を伴って迫ってくるものでした。

 「よう知っとると思うとることでも、ほんまは知らんことが多いよな」

 「よう知っとると思うとる人のこともね・・・」(p.47)

 美術教師だけではない。近所のあの人にも、自分の家族にも、口に出して言えないものがたりがある。彼らはそれを知っていきます。

 「野原で一人で立って空を見上げていた。」(p.77)

 『青い空は』という歌があります。1コーラス目に「燃える八月の朝」という言葉があったはず。でも、私には2コーラス目にある「星はだまって連れ去って行った」というフレーズの方が記憶に残っています。「だまって」という部分に恐ろしさを感じる何かが自分の中にあるからだと思います。一人で夜空を見上げる登場人物のシーンはその歌詞を思い出させます。

 そして、ものがたりを変更させられたのは8月6日だけではなかった、日本だけではなかった。

 「きっとこの世の中には、私や小山さんのような母親が数えきれないくらいいて、それはたぶん、敵だの味方だのの区別はなくて、アメリカでも中国でも韓国でも欧州でも、私と同じように毎日毎日を息を継ぐようにして暮している母親たちがあるに違いない。」(pp.85-6)

 ロシアのレニングラード、イタリアやポーランドホロコースト

 戦争には様々な局面があり、そのそれぞれで勝敗がついたり、作戦の成功・失敗が言われるのかもしれません。でも、その結果がどうあろうと、どちらの側にも必ず死者が出る。説明は色々とされるのかもしれないけれど、究極的には「だまって」命を奪われている側面があるのではないか。

 「自分の死によって大切な人たちが助かるのだとムリヤリ自分に言いきかせたのだろうと思います。遺書に泣き言は書いてありませんでしたが、さぞ無念であったろうと思います。」(p.157)

 知覧で遺書を見た時に私が感じたのも似たようなものでした。ムリヤリ自分に言いきかせた理由は「だまって」の答えとなったのでしょうか。

 「もしあの日起きたことになにか意味があるとしたら、ぜひ知りたいのです。」(朽木祥『八月の光』偕成社 p.123)

 意味さえも知らされず大切なものを奪われることがあってはならない。加害者も被害者も生み出す戦争を起こしてはならない。そんな想いが強くなる本です。でも、そのためには、傍観者でない在り方とはどういったものなのか、迷いと自問で気づけば奥歯を強く噛みしめたまま読んでいた本でした。

 最後に、私は灯籠流しを初めて見た(といってもTVの中のそれで実際に見たことはないのですが)時から個人的に気になっていることがあります。それは「水に流す」という日本語のことです。灯籠流しは行動としては「水に流し」ています。そして、実際に「水に流す」という言葉のことも連想してしまいます(これも灯籠流しに対して自分自身を不謹慎に感じる理由の一つだと思います。忘れないことを意図しているものを見て「忘れる」という意味を認識しているためです。)。でも、その画から伝わってくるのは「水に流す」という言葉とは正反対の想いです。忘れてしまう、なかったことにする、を意味する行動がむしろ逆に忘れない、覚えているという強い気持ちを伝えてくる、これは何なのか。うまく言葉にできないままずっと心に引っかかっていました。でも、

 「この灯籠もまた『うつしえ』の一つのかたちなのだと悟った。」(p.183)

 『光のうつしえ』の主人公が終盤に悟ったことがその疑問へのひとつの答えなのかもしれないと今は思っています。

 

"All photographs are memento mori."(by Susan Sontag in On Photography)