中村和恵『日本語に生まれて:世界の本屋さんで考えたこと』岩波書店

 「すみません、本屋さんはどこですか。」(p.33)

 「すみません、本屋さんはどこですか。どこに行っても、わたしはそう訊くのだった。」(p.221)

 著者である中村和恵さんは、大学教授で専攻は比較文学比較文化英語圏文学、と略歴ではなっています。といっても、この本は堅い学術書ではなく、世界の本屋さんを訪ねる中で考えたり感じたことを綴ったエッセイ風の文章です。

 「英語で書かれた文学、というと、いまだにイギリスとアメリカ合衆国、そのどちらかのものと考える人が多い。それは現在の世界の実情とはかなり、かけ離れている。」(p.6)

 この本を読みながら私はまたまた『R.O.D.』というアニメシリーズに登場する本の虫たちの姿を中村さんに重ねていました。

 「本屋で買えない本だから、ネットで流れていない情報だから、そんなに入手したいのかというと、いや、そうじゃない。たんにおもしろそうだから。きっといままで聞いたこともない考えの方向やリズム、感覚が、その本の内側にひっそりと息づいている。そんな想像ができるから。」(p.27)

 実際、この本に登場する本で興味を持ったものがあってもAmazon(日本)では手に入れにくいものが殆どです。いや、若干嘘をつきました。紙では手に入れにくいものが殆どです(Kindleならもうちょっと入手しやすそうでした)。それはこの本で中村さんが触れる本の多くがいわゆる旧宗主国側のものではないから。たしかに英語(やフランス語)で書かれているけれども、植民地だった側が書いたものであることが流通における勢いに反映しているのかもしれない。

 そう考えると、英語で書く、発信するということが広く世界へ届けることにつながると言われることがあるけれど、逆に考えた時に、外国語で書かれたものが日本語に翻訳されるというのはどういう力関係が働いているのだろうと思えてきます。

 「日本語の読者層が翻訳書を買いつづけてくれている間は、日本語の翻訳出版は商売として成立しうる。」(p.56)

 日本は翻訳書が盛んな稀な国である、と時折聞きます。外国の本を自国語で読むことのできる恵まれた国だと。ただ、翻訳出版や学術書が商売として成立するのは、それを支える別のものがあるからではないのかな、とも思います。

 「『月刊プレイボーイ』が廃刊になったとき、ひとつの時代が完全に終わったとおもった。裸の女の人が見たくて雑誌を買う人を頼りに、しっかり取材した地味な記事も載せられる比較的自由な商業雑誌をつづける、それはインターネットがポルノ映像をタダにしたことで不可能になった。」(p.37)

 『本を生み出す力』という本でたしか、各出版社が本の種類によってポートフォリオのようなものを組んでいるという話がありました。例えば、教科書的なもので儲けは確保しておいてモノグラフを出版する、といったような。

 現実の日本の書店がどういった構成で商売をしているのか曖昧ですが、雑誌とコミックが主要な2本柱ではないでしょうか。店舗というマクロで見た場合、そうであっても、例えば人文書やノンフィクションというミクロで見た時はどうでしょう。

 こんなことを考えてしまうのは、2011年の東京都知事選において石原慎太郎さんが再選されたことについてこう書かれているためです。

 「石原氏のことばが、その思慮を欠く内容にかかわらず、単純で率直なつよさゆえに大多数を惹きつけているということだ。」(p.125)

 その「ことば」に対抗する術を中村さんは文学力、要するに批判的に読む力だとしています(p.124)。文学、最近読んだ『ネトウヨ化する日本』という本の中で村上裕一さんはセカイ系決断主義への対抗として文学の復活を謳っていました。文字面だけを見ると、中村さんと村上さんは類似しているように感じられます。でもちょっと違っているように私には思えます。

 話が若干遠回りしましたが、人文書?やノンフィクションでいわゆる「ネトウヨ」と親和性の高い内容を扱った本が売れていると聞いています。中村さんがプレイボーイの例で考えているようにポルノと地味な記事のバーターではないのですが、仮に「ネトウヨ」的なもので売上をとり、他の品揃えを維持しているという側面があるとしたら、文学力・文学による対抗は可能なのでしょうか。

 もうひとつ、中村さんと村上さんが同じ「文学」という言葉を使いながら異なっているのではないかと私が感じる理由は言葉に対する感覚ではないかなと思います。

 村上さんは『ネトウヨ化する日本』の「おわりに」で次のように述べています。

 「そんな決断がいったい誰に可能だというのか。それはイェルサレムのアイヒマンがごとき仕事ではないのか。」(『ネトウヨ化する日本』p.343)

 一方、同じアイヒマンに対してこんな言葉があります。

 「スペシャリストは自分の言葉を持ちません。自分自身を、自分の言葉で定義しません。」(長田弘『すべてきみに宛てた手紙』晶文社 p.121)

 続いて中村さんの言葉です。

 「政府を、会社を、代表して話す人は、他人事のように話す。自分としてではなく、役割として話す。急にかれら、になってしまう。」(p.122)

 中村さんの文章を読んでいると何故か多和田葉子さんを思い出します。一瞬、ただのダジャレじゃない?と思ってしまうような言葉についての話があったりするものの、異なる言語間で表現する人にとって、その言葉が誰のものであるか、という部分の占めるウエイトの大きさを感じます。

 「わたしは帰っていくつもりでいる。一番の理由はたぶん、日本語に生まれたから。」(p.68)

 その理由のひとつを中村さんはこう言います。

 「わたしが日本語でぎりぎり手の届く、ある不明瞭な領域、英語では手が届かない気がするのだ。」(p.69)

 アイヒマンが決断をしたように見えるのは、その決断が彼意外の言葉で為されたという視点が抜けているから(私自身、ハンナ・アーレントの『イェルサレムのアイヒマン』を読んでいませんし、その証言を録画したらしいドキュメンタリを見たこともないので間違っている可能性はあるのですが)。

 「何語で書くか、という問題はやはり、いかに考えるか、ということと無縁ではありえない。」(p.58)

 村上さんはまた、上に挙げた著書の中で逡巡することの大切さも説いているのですが、同じ理由で私にとってそれは中村さんの言葉とは違ったように響いてきます。

 「揺れながら、間違いながら、ぶつかりながら、考える。ことばは憧れるこころを描き出す美しい素材であるだけでなく、そういう不細工で腹筋にこたえる汚れ作業のための現実的な道具でもある。」(p.179)

 他人の言葉ばかり使ってこんな感想を書きやがって、という批判を感じつつも、もっと本を読んで自分の言葉を手にしていきたい、そう思う本でした。