モニカ・ブラウ『検閲1945-1949:禁じられた原爆報道』時事通信社

 「検閲の規則には、検閲そのものを話題にしてはならないのみならず、検閲の事実も漏らしてはならないという条項があった。」(p.58)

 著者であるモニカ・ブラウはスウェーデン出身。そのため、日本における原爆報道の検閲について本を書いたことを非常に珍しがられたそうです。

 この本はおおまかに言って2つの筋からできています。太平洋戦争後の占領下日本における検閲一般について書かれている部分。そして、その検閲の中で原爆に関わるものについて書かれている部分です。

 初期の検閲では、対象は事前検閲と事後検閲に分けられていたそうです。事前検閲の場合、発行できるかどうか検閲を受けるまで分からないものにかける経費、許可を受けるまでにかかる時間というリスクがあったとされます。一方、事後検閲の方は発行を許可されなかった場合、事前検閲対象へと移行される可能性が自主規制を促したとされています(p.126)。

 検閲の内容については「公共の安寧を乱す」ものについて発行は許可されなかったようです。ただ、その運用は検閲組織の人員・言語能力の問題もあり(「戦時中に日本語学校で学んだアメリカ人の総数は、約1,000人を越えなかった。そのうちごく一部がある程度長期に日本の占領にかかわることになっただけであり、そして検閲作戦に従事したものはさらにもっと少数であった。」p.86)、恣意的な側面もあったとされます。

 「手引や規則が変通自在であっただけではない。これらは、一人の人間、つまりマッカーサーのことばによって無効にされることもできたのである。」(p.112)

 そして、日本において原爆資料が検閲の対象となった理由のひとつとして、アメリカが原爆投下の咎を受けるのを避けるためだとしています。

 「日本人のなかに戦争にたいする自責心を植えつけるためには、敗北に弁解の余地がありえないこと、そして日本人みずからが原子爆撃を招いたのであるということを、理解させるように仕向けなければならないというものであった。」(p.193)

 それにしても、軍国主義国家日本を民主化するための占領軍が検閲を行っていたことへの抵抗はなかったのでしょうか。著者は端的に言います。

 「日本人は検閲に慣れていたのだ。」(p.202)

 占領軍の検閲が民主主義の理想からズレていたとしても、日本人はそれを戦中の自身の社会と比較したため、それほど戸惑わなかったと著者は考えています。

 「占領にかんするすべての研究のなかでは、あたかも広島と長崎が存在しなかったかのようである。」(p.242)

 1968年の時点での著者の印象ですが、東日本大震災での福島原発からの放射能汚染を経た今から考えると、必要とされる人に必要な情報ができるだけ正確な形で届けられることの大切さを考えます。

 「観察所見の発表をもっとも切望したのは医師であったと思われる。医師たちは、原子爆弾によってひきおこされた病気を治そうと毎日奮闘していたが、それらの病気と傷害は、彼らがそれまで見たことがなく、どのように治療すべきなのか途方に暮れるものであった。」(p.156)

 中学、高校で確かに習ったはずの憲法の条文をすっかり忘れてしまっていたことを読み終わって思い出した本でした。

 「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」(p.36)