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朽木祥『八月の光』偕成社

 「崩れ落ち部屋に埋もれる友人の最後の言葉は『もうねむたいわ』」

(南悟『生きていくための短歌』岩波ジュニア新書より 木村和美さんの歌 p.159)

 『八月の光』は1945年8月6日の朝を描いた小説で以下の3つのお話が収録されています。「雛の顔」「石の記憶」「水の緘黙」。内、「水の緘黙」のみ1949年のお話となっています。

 いずれの話を読んでいても、私は地震などの災害が起こった時の状況を連想してしまいました。

 「そんなことがほんとにあるのか、そんな爆弾がほんとにあるのか、だれもほんとうのことは知らなかった。」(p.35)

 何かとてつもないものに襲われてしまい被害は今も進行中、いや既に多くのものが奪われてしまっているのに、それを知る術がないためにどれだけの被害があったのか分からない。爆心地にいる「当事者」なのに状況をつかめないという逆説。

 先の大震災の際も似たような状況があったのではないでしょうか。地震津波メルトダウン、何かに襲われているのに、その実、本当は何に襲われているのか把握できない。

 最初に引用したのは、阪神大震災の経験を元に詠まれた短歌です。この歌を連想したのは、「水の緘黙」に梁の下敷きになった少女の光景が描かれていたためです。

 「あなたには、どうすることもできなかった。」

 「だれにも、どうすることもできませんでした。」(p.132)

  私には目の前で人の命を奪われた経験がありません。それはきっとただ単に幸運なだけなのだと思います。人が次々と死んでいくのを目撃した時、さらに自分が 何かをしていたら助けられたかもしれないと考えてしまったら。自分が助かるためにその人を見殺しにしたと考えてしまったら。

 「ひとりだけ助かった後ろめたさが、真知子にも家族にもあったのだ。」(p.40)

 災害などで生き残った人がそのことで自分を責めることがあると聞きます。

 「あなたでも私でもよかった。焼かれて死んだのも、鼻をもがれたのも、石に焼きつけられたのも。あなたでも、私でもあった。死ぬのはだれでもかまわなかった。」(p.139)

 それなのに彼や彼女たちが死に、私やあなたが死ななかったのは何故なのか。

 こうの史代さんに『夕凪の街 桜の国』というマンガがあります。そのマンガの方だったか、映画化された方だったか忘れてしまったのですが、登場人物が次のようなセリフを言うシーンがあります。

 「原爆は落ちたんじゃない、落とされたんじゃ」

 原爆は勝手に落ちてきたわけではない、誰かの意思決定の下に投下された。

 また、次のようなシーンもあります。自分はやっと死ぬ、原爆を落とした人は満足か。目的がやっと達せられて満足か。原爆投下自体を生きのびた登場人物が原爆症で亡くなる場面です。

 原爆を落とした「モノ」の殺意はきっと殺された人たち個々人を個別具体的に対象としたものではなかった。まさしく「死ぬのはだれでもかまわなかった」のだと思います。そんなものの標的になってしまった時、一体何ができるのだろう、そう考えざるをえません。

 「水の緘黙」で梁の下敷きになり逃げられなかった少女の話には続きがあります。

 「どうぞ殺しなさい。私が最期まで自分の卑怯さから逃れようと努力したこと、頭はわるいけど少なくとも高潔になろうとした人間だったことを、きっと友達は記憶してくれる」(津原泰水ルピナス探偵団の憂愁』創元推理文庫 p.221)

  『八月の光』の中で原爆は体が生き残った人の心を殺したという風に表現されます。これこそが答えである、とは絶対に私は言えません。でも、得体も主体も客 体さえも明瞭ではない殺意の犠牲となるとき、心だけは守りきること、高潔であろうとすること、それは「できること」のひとつだと思います。

 そして、これもまた答えであるとは言えませんが、犠牲となるのが誰でもよかった状況で生き残ったことの意味のひとつは、無差別殺戮において屈しなかったものが確かにあったということを覚えていることなのかもしれない、そう思うお話でした。

 どれもそうかもしれないし、全然違うかもしれない。

 「もしあの日起きたことになにか意味があるとしたら、ぜひ知りたいのです。」(p.123)

 読んだ後に迷いと「こんなことがあっていいはずがない」という想いを残す本でした。