村上裕一『ネトウヨ化する日本』角川EpuB選書

 「もはやネトウヨとは、(ある種の政党のように)特定の主義主張を持った人たちを指し示す言葉ということでは賄いきれません。それはむしろ、フロートたちのある感情的暴発状態を指し示す言葉として、再定義されるべきだというのが筆者の主張です。」(p.77)

 筆者は選挙での浮動票のイメージを思い浮かべながらネットにおける潜在的参加者層を「フロート」と名付けます(p.20)。そして、それは「感情の動きにより翻弄されるようになった存在」(p.74)だとされます。更に、スマホの普及などによりネットがより身近なものとなり、ネット上の情報に対する「臨場感」の向上が影響しているとされます。

 「インターネットとは2ちゃんねる(的)である」(p.48)

 一方で、フロートが存在する環境であるネットは祭りや炎上(著者は荻上チキ経由でサンスティーンのサイバーカスケードという言葉を充てています)が起こりやすいこと、したがって保守・右翼的な内容や話題も増幅しやすく、また、2ちゃんねるまとめサイトによる編集によってそれらの傾向が濃縮されやすいことにも触れられます。

 感情の動きに敏感で、ネット上の情報への臨場感が増した「フロート」が右寄りの情報・思想が増幅される環境下にあることで「ネトウヨ」になる、というのが本書の筋書きです。

 「これまで政治的な活動をしたこともなければ、政治的な主張も持っていなかったにもかかわらず、日常的にスマホなどでネットを利用している中で、自然さを装った様々な情報に触れているうちに、右翼的、保守的、反・反日的な情報・思想バイアスを受けてしまった人たちのこと」(p.187)というのが著者のネトウヨ化したフロートをまとめた言葉です。

 さて、「フロート」が上に引いたような特徴を持つのなら、受け取る情報・思想バイアスは右翼、保守、反・反日的なものである必要性はないように思います。感情的に臨場感に揺り動かされるのなら、左翼的なものでもよいのではないでしょうか。なぜ「ネトサヨ」化しないのか。

 本書の3章以降で、ネトウヨ的な出来事が感情的動揺を与える理由をその内容から議論するとしています。白状しますが、ここから先の展開が読んでいてよく分かりませんでした。

 例えば、「世界史コンテンツ」というサイト?があり、理解できなくとも無条件に受け入れられるネット上の「教典」の例として挙げられています。その件で『知の欺瞞』や「ソーカル事件」に触れられているのですが、いわゆるサイエンス・ウォーズの後だからこそ「ソース原理主義」(p.167)に応えている「世界史コンテンツ」が読み手に信頼性を担保することで教典化できる、という本筋を脇に置くと、今ほどネットが発達していなかった時代の「ソーカル事件」→『知の欺瞞』でさえ「理解されなかったことが熱狂の原因」(p.166)であることを示しているわけで、「フロート」が陽動されるのが他の何かではなく、まさしく「ネトウヨ的」なそれである理由をうまく捕まえられません。

 アニメや在特会の言説を考察する中で「セカイ系決断主義」(=「人類の命運のような『大義』を背負って、生きるか死ぬかの戦いにコミットしていく精神性やそれに対する共感」p.42)と「ネトウヨ」化する「フロート」層の親和性が高いことを言っているとは思うのですが、その大義の中身が他の何かではなく、まさしくそれである理由もまた、私には率直に言って分かりませんでした。

 そして、著者である村上さんのスタンスですが、セカイ系決断主義を批判しているようです。それに対抗するために「文学の復活」が必要だとされたり(p.248)、「ただ一つ言えるのは、『逡巡』を大切にすべきだということだ。」(p.343)と言われています。でも、その詳細が書かれていることを期待して読み進める第5章は京アニ京都アニメーション制作のアニメ作品)やカゲロウプロジェクトなどアニメやゲームの話が延々と続いていき、唐突な印象を受けるだけでした。

 正直に言って読み終わって何が書いてあったのかモヤっとした印象を受ける本です。ただ、「おわりに」で村上さんが、あのアイヒマンについて政治的な決断を行った人物だと考えている風に読める箇所があります。ハンナ・アーレント関連で私が持っているアイヒマンのイメージは決断をした人ではなく、決断をしなかった人、なので、うまく言葉にできませんが、そのあたりのイメージの齟齬が本書をうまく読めなかったことと関連しているような気がします。

 「そんな決断がいったい誰に可能だというのか。それはイェルサレムのアイヒマンがごとき仕事ではないのか。」(p.343)