北森鴻『共犯マジック』徳間文庫

 「『どの方角の国で、どのような人物が、いかなる不幸に見舞われるのか』、この占いの書は毛ほどの容赦もなく予言し、それがまた実によく当たったのである。」(p.10)

 不幸のみを予言するという「フォーチュンブック」。あまりの的中率に不幸をさけるため自殺者まで出てしまいます。そうやって社会現象化したときに待っている展開もある意味お決まりのものとなります。

 「全国の書店から、この予言の書はほぼ完全に姿を消した。」(p.12)

 こういった設定を読むと思ってしまいます。自殺してしまったら、それは予言の自己成就ではないのか、と。予言されている不幸を避けるために自ら命を絶ってしまえば、自分で予言を的中させていることになる。そうしなければ、予言は外れていたかもしれないのに。でも、そんな風に予言を真に受けるトレンドを一笑に付せない事情が個人的にあります。

 今の中高生はきっと知らないと思いますが、ノストラダムスの大予言というものが昔ありました。私がはじめて知ったのは多分、小学校の頃だったと思います。細部は知らないものの、1999年にアンゴルモアの大王が来て世界は滅亡すると言われていました。そんんなバカな、と当然思います。でも、心の隅でどこかで思ってしまっているのです。もしかしたら・・・、と。実際にはコンピュータの2000年問題の方が現実的な問題として持ち上がっていたのですけれども。そういえば、『すいか』というドラマも最初の話数でアンゴルモア大王に触れられています。世界は滅亡しなかったけれど、その話をした双子のうち一人は亡くなってしまった、という始まりです。

 不幸しか書いていないのに、どうして人はそれを読もうと思うのでしょうか。フォーチュンブックは自主回収だったために長野のある書店には残っていました。そして、その貴重な本を手にした人たちの顛末による短編連作がこの本です。

 各話数では、それぞれ自分の身に起きたことの別の意味に気づいています。例えば、第5話「さよなら神様」では、語り手の女性は自分に起こった幸運が実は誰かに利用された結果だった可能性に思い当たります。では、フォーチュンブックが予言した彼女の不幸は本当に不幸だったのでしょうか、それとも実は幸運だったのでしょうか。

 予言をバカバカしいと思いながらも、それを真に受ける気持ちも分かる。その上で、予言されたことの評価はまた別モノであるような気がします。ミステリとは別の部分で常にそのことを考えさせられる本でした。

 「恢復を望むことが適わないほど重い病の場合、患者にそれを告知するという習慣は日本にはない。」(p.202)