石岡良治『視覚文化「超」講義』フィルムアート社

 「教養は定義上は万人に開かれていますが、実際に読みつくすには時間とお金の余裕が必要である、つまり富裕層であることがまず必要とされます(私自身は富裕層ではなく、ただ単に時間を費やしてこの種のカルチャーに溺れた側ですね)。」(p.19)

 本を読むときは、題名や出版社など諸々の情報から予断を持ってしまいますが、この本は最初から教養、教養主義という言葉が登場して思わず竹内洋先生が語りだしたのか、と思ってしまいました。視覚文化でフィルムアート社なのに。論壇とか中央公論の雰囲気・空気が微妙に漂っています。

 でも、そんな心配(?)は無用で、ポピュラー文化について5つの講義から成り立っている本でした。以下、各講義の題名です。

 

 Lecture.1 カルチャー/情報過多

 Lecture.2 ノスタルジア/消費

 Lecture.3 ナラディヴ/ヴィジュアル

 Lecture.4 ホビー/遊戯性

 Lecture.5 メディエーション/ファンコミュニティ

 特別対談 國分功一郎×石岡良治

 

 「ノスタルジアとは、人工的にその場で生まれているものであり、過去を体験したかどうかはあまり関係ありません。」(p.95)

 5つの講義の中で私が一番気になったのは2講目の「ノスタルジア/消費」でした。

 最後の対談部分で國分さんが普通、消費の反対であるような懐かしさこそが消費されるとして、石岡さんに同意している部分があります(p.300)。

 このノスタルジアに触れる中で、自分が懐かしさというかノスタルジアを感じるものを考えていました。北村薫さんの文章、特に「円紫さんと私」シリーズだと強いかな、向田邦子さんの文章、最近読んだ中では仁木悦子さんの『猫は知っていた』も懐かしい空気がした。あとは小田和正さんの歌や辛島美登里さんの叙景メインの歌に感じることが多いような気がします。熊木杏里さん、池田綾子さんの歌は懐かしい感じがするものとそうでないものがある。「円紫さんと私」は微妙だけれど、他はいずれも現実のその時代に私はいなかった。いなかったのに、懐かしさを感じる時は、存在したものがなくなってしまった、というまるで英語の現在完了形の直訳のような捉え方をしている。

 あったものがなくなるという変化、時間の経過を体験していない以上、それを見た時に感じるのは懐かしさではなく新鮮さのように思います。でも、実際に感じるのは懐かしさの方。

 「一種の言語行為として『懐かしさ』が広まっているのではないか。」(pp.90-1)と説明されてもいますが、対象が「懐かしいものとして作られている」ことと、そこから懐かしさを実際に感じることとは距離があるように思います。

 ノスタルジアには、ここに無いものに対するという側面と憧れるという側面があって、仮に縄文時代や先史時代のことを対象にしても、憧れがない(縄文文化に憧れる人もいるかもしれないので微妙ですが)からそれにはノスタルジアは抱かないのではないでしょうか。

 逆にここに無いもので憧れの対象であっても、それが未来のものだったらノスタルジアにはならない。

 「日本の音楽番組『ミュージック・ステーション』が踏襲しているように、生演奏を重んじ、演奏している姿を見せることです。」(p.140)

 この説明は、私が伝聞から持っている最近の歌番組のイメージと異なるのですが、実際に放映されている「演奏」が生でないものばかりのとき、生で行われていた過去を相補的に想起して懐かしさを感じる場合もあるように思います。

 ある/ないをポジ/ネガとすると、ネガをネガとして再生したものを見せられて懐かしくなる場合と、ポジを経由してネガを「見てしまい」懐かしさが喚起される場合がある。だとしたら、将来的に生演奏が再来したとしても、そこで起こるのはその時の生演奏を経由した過去の生演奏の想起であって、対象は過去に向いているので懐かしさなのかもしれない。

 「何が人工的か。何が必要で、何が余分なのか。この問題は、その人が慣れ親しんだメディアによって変わってくるのではないかというのが私の持論です。」(p.224)

 ノスタルジアの喚起に過去の実経験は必要ないのかもしれません。でも、少なくとも、それを過去だと感じる代替物は必要なのではないでしょうか。

 カーペンターズの『イエスタディ・ワンス・モア』を聞いても小田さんの「風のように歌が流れていた」を聞いてもノスタルジアを感じるのは、若い頃にお好みの曲がかかるのを待ちながらラジオを聞いていたまさしくその時間を生きていたからでも、小田さんの念頭にあった今はもうない街に住んでいたからでもなく、私の中でそれらに代わる何かが過去にあってもうないものとして嵌め込まれるからだと思います。

 と、考えてみても、実際にノスタルジアを起こすものと起こさないものがどうしてあるのかよく分かりません。もしかしたら、明治・大正・昭和・平成、あるいは西暦で区切った例えばゼロ年代など、そういった「時代」に1対1対応するテンポ・リズムのようなものを想定していて、そのテンポを感じられるかどうかがノスタルジアの生起に関係している、ということはあるのでしょうか。

 だから5講目の「メディエーション/ファンコミュニティ」で速度の話が出てくるのでしょうか。

 「私は大事なのは減速や離脱には限られず、リズムの尺度を複数化させることだと考えます。」(p.278)