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乾くるみ『蒼林堂古書店へようこそ』徳間文庫

 蒼林堂古書店は公務員を辞めたオーナーが営むミステリ専門の古書店です。店内にはカフェスペースがあり、売買いずれか100円のやりとりが発生した場合、サービスとして珈琲が供されることになっています。経営としてはネット販売が主なため、実店舗へ足を運んでくれるお客さまへのサービス、とのことです。

 そんな古書店に集まる常連客とオーナーがよもやま話の中に登場する日常の謎を解く構成の短編連作っぽい本となっています。

 この本は私にとって若干ハードルが低く感じられるものでした。ハードルというより敷居といった方が雰囲気に合致しているでしょうか。古書店で交わされる雑談ということでいきおいミステリに関する薀蓄がほとんどなのですが、登場する本の中で既読のものがあったり、題名は知っていたりするものがあってちょっとだけ親しみやすい本でした。

 『「ずるいよね、こんなの」と柴田少年が文句を言う。」(「秘密結社の集い」p.26)

 「秘密結社の集い」の謎を解いたものの、その解き方に柴田少年は異を唱えています。先日、ある書店縛りのアンソロジーを読んだ時に、どうしてその解き方をまずしないのか、と思った覚えがあったので、やはりそういった解き方は「ずるい」のか、と思い反省しました。

 「みなさんはサンタって、何歳ぐらいまで信じてました?」(「都市伝説の恐怖」p.64)

 この話題になると、私には個人的に頭の中で響く言葉があります。

 「Yes, Virginia,」

 偕成社から『サンタクロースっているんでしょうか』という本が出ています。サンタクロースの存在を問う少女からの投書にアメリカの新聞の社説が真摯に回答した文章です。少し脱線しますが、七河迦南さんの小説でたしか『アルバトロスは羽ばたかない』だったと思うのですが、主人公が屋上で自分がこれから投げかける言葉に相手の心に通じるだけの力を宿らせてくださいと祈るシーンがあります。

 ヴァージニアという少女に対する上に挙げた「Yes」という肯定は短いながらも彼女の不安を支えるには十分すぎるほどの説得力と力強さを感じさせます。特にその部分に至る前段を読むとそれは増します。それは言葉の選択とは違う部分で宿る力のような気がする。サンタクロースがいるかどうかの話題に触れるといつもあの言葉が耳に甦ります。実際に音声として聞いたことはないのですけれども。

 あとは野沢尚さんの『破線のマリス』が登場するシーンで(「臨光寺池の魔物」p.137)小学校の教諭をしている登場人物が子どもがひどい目にあう本を手元に置いておくのが忍びないとして、同著者の『リミット』の方を買い取ってもらっているのですが、『破線のマリス』で犯人の犯行を「見ていたモノ」の正体を考えたら、その選択はいいのだろうか、と考えたりします。

 「同級生の庇護者の存在が、却って本人の自立心の妨げになっていることもあるんですよね。」(「アルプスの朝陽」p.47)

 また、森博嗣さんの『夏のレプリカ』に触れられる箇所では、友人の「成長」を知ることは、必ずしも喜ばしいことを意味しないな、と思い出したり、加納朋子さんの『螺旋階段のアリス』に触れられるシーンでは、10数年前に電車の待ち時間にそれを読んだ駅のプラットホームの様子を思いだしたりしました。そして、『ガラスの麒麟』の印象も相まって、探偵(役)だからといって泰然としているわけではない、実は危ういものを抱えていても真相を暴く役回りを演じることもある、というようなことを漠と考えたことも思いだしました。

 「なんかこう、最近、マンネリな感じ、しませんか?毎週同じメンツで、同じように黙って本を読んで」(「マネキンの足跡」p.82)

 この本の登場人物たちは常連客で時間を共有して本を読んでいますが、私はいつも同じメンツではなく、同じ自分で同じように黙って本を読んでいます。

 「いくら本をたくさん集めて読んだとしても、人はいつかは必ず死ぬ。」(「亡き者を偲ぶ日」p.243)

 そうやってマンネリ、代わり映えしない日々の果てに待つものは決まっているのかもしれません。でも、この本を読みながら過去に自分が読んだ本、読んではいないけれど接点があった本、そういった本にまつわるエトセトラを思い出したように、やがてくるであろうその日にも色々なことを思い出せるかもしれない。走馬灯が回る時間があるかどうかは分からないけれど。

 「わたしが死んでも、本が残る」(紅玉いづきサエズリ図書館のワルツさん』1巻 p.277)

 だから、これからも本は読みつづけていくのだと思います。