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山村基毅『ルポ 介護独身』新潮新書

 「仕事をしながら介護をしていく独身者は、仕事を辞めて介護に携わった者に比べて、多様な介護サービスを駆使していかねばならない。べったりと介護に付き従うのが辛いか、働きつつ、職場で老親の安否を気遣うのが辛いかは、もともと比べようのないことである。いずれも辛いし、難しい。」(p.66)

 この本を読もうと思ったのは、あるブログの記事を読んだためです。

 最期まで一人でいる、と考えた場合、自分自身のことなら設計とまでおおげさなことではなく、なんとなく算段することはあります。でも、そこに誰か他の人、親や親族の世話、とりわけ介護をしなければならなくなったら、ということはあまり考えていません。可能性としてはかなり大きいのにも関わらず。

 たとえば仕事のこと。この本には親の介護をすることになったタイミングと失業したタイミングが重なっているケースが度々出てきます。

 「長期にわたると、当然、収入減はなくなってしまう。すると、介護される相手、多くは親だが、彼らの年金などを充てることになる。」「彼らは誰一人として『親の面倒をみていることへの報酬』とは捉えていなかった。職業をもたず、何ものも生産せずにいることに、後ろめたさを感じたりする。」(p.61)

 ただ、親の介護を「するために」職を辞した、という風に介護を失業の原因だと強く説明しているよう(実際にはそうであっても)には何故か感じられない記述でした。

 そして、結婚のこと。

 「『介護独身』の『独身』ということから思い起こされる悔いや寂寥感は誰もが抱いているようだったが、そのことへのこだわりは感じられなかった。」(p.192)

 介護をしている「から」結婚できない、という説明を推しているようには感じられない印象を随所から受けます。実際、著者がインタビューした人に独身であることを聞いても「介護のせいで」結婚してない/できない、という理由づけを積極的にしない場面が見受けられます(実際にそうではない、ということではないと思います。)

 自分だったら、どうかなと考えます。仮に介護をしていて独身だったとして、結婚していないのは介護のせいですか?と聞かれたら、そうです、とは言えないというか言わない気がする。結果的に介護をしていて結婚の機会がない、としても、介護がなくても結婚しない/できないのなら、「介護をしているから」という理由づけはできないように感じます。もちろん、自分が自身の理由・動機として表明する場合に限ってですが。

 「独身者による介護とは、そもそもが孤立を前提として行われるということだ。他者を排除し、より純然たる親と子の関係で面倒をみる」(p.196) 

 介護する独身者に兄弟がいても、その独身者が介護を担う理由を突っ込むというよりは、そこはあまり触れていない印象です。そこを突っ込むと「介護独身」という言葉で提起しようとしているものとは別の要因にフォーカスがあたるからでしょうか。

 親と子の閉じられた空間での介護というと清水玲子さんの『秘密』にあったある話数を思い出します。そこで描かれていた親に囚われてしまった自分の人生に対する子の怨嗟のおどろおどろしさを連想してしまいます。

 そんなドロドロとした部分が敢えて避けてか描かれていないためでしょうか、この本は独身者が介護をすることを「社会問題」(帯に「非婚・少子化×超高齢化で生まれた新しい社会問題」とコピーが書かれています。)としてみようとしているのですが(実際、そういった面はあると思いますが)、独身者が陥ってる窮状を介護を理由として説明しようとする意志があまり感じられない、不思議な本になっていると感じました。