吉田秋生『海街diary6:四月になれば彼女は』小学館

 この巻には「いちがいもんの花」「逃げ水」「地図にない場所」「肩越しの雨音」「四月になれば彼女は」が収録されています。

 「追いかけても 追いかけても たどりつけない幻の水かあ なんだかせつないね」(p.53)

 逃げ水、と聞くと天野こずえさんの『ARIA』を思い出します。

 「でも もしその逃げ水に追いついてしまったら どうなるのかしら?」(天野こずえARIA』4巻「逃げ水」P.61)

 逃げ水だ、と思った瞬間にもうそれは追いつけないものだと想定されています。追いかけても追いかけても届かない、でもそこに不安はない。そういうものだと初めから分かっているから。

 アリア社長を追いかける少女が不安になったのは、それが追いつけるものだと思っていたから。初めから分かっている、結果を知っている、そう思っていることが気がつけば違った状況に陥っていることもある。

 数字の2はずっと、自分の前や上に1がいると思っているのかもしれない。いくらがんばっても追いつけないしたどり着けないのが1だと思っている。でも、ルールが素数だったら。一番最初に来るのは2。想定外の事態にとっくになっているのに、当事者は気付いていない。

 「もしその逃げ水に追いついてしまったら どうなるのかしら?」

 「地図にない場所」では、地図にない場所へ行こうとして地図を広げてしまったという主人公のいとこが登場します。

 地図にない場所というのは、文字通り地図の外にあるものでしょうか。件のいとこは自分の行為の矛盾に気づき笑ってしまったと言っています。でも、地図の中にも「地図にない場所」はあるのかもしれない。

 例えば、私の体は地図には載っていません。他にも地図には捨象されているものがたくさんある。あるいは、地図に載っていると思い込んでいる住所や座標上に自分が位置しているとしても、自分がどこにいるのか分からなければ、それもまた「地図にない場所」と言えるように思います。

 観点はなんでもいいのですが、広げた地図に「地図にない場所」はない、地図の中で追いかけて続けてもたどり着けないと思っている場所に自分が既にいる、と認識してしまうことは、追いつけないはずのものに追いついてしまっていることにならないのでしょうか。

 「たどりついちゃったら それで終わりでしょ?」(p.62)

 追いついてしまったら、それで終わり。それに気づいていないということは、終わっているのにそれを知らないということ。死んでいるのに死んでいると気づけていないこととの差はどのくらいでしょう。

 「もしその逃げ水に追いついてしまったら どうなるのかしら?」