角田光代『さがしもの』新潮文庫

 「神さま、この本が世界に存在することに感謝します」(p.198)

 この本を読もうと思ったのは、あるブログの記事を読んだためです。文庫化に際して『この本が世界に存在することに』から改題されています。いずれも本にまつわるお話による短編集となっています。以下、各お話の題名です。「旅する本」「だれか」「手紙」「彼と私の本棚」「不幸の種」「引き出しの奥」「ミツザワ書店」「さがしもの」「初バレンタイン」。

 本に関係するお話、ということで自分の読書体験や過去に読んだ本の内容にひきつけたり思い出したりしながら読みました。

 「本棚の本が似ていたって恋は終わる。」(「彼と私の本棚」p.72)

 むかし、物理学者である米沢富美子さんの本を読んだことがあります。題名は覚えていないのですが、人と打ち合わせをしているときに自分の鉛筆を相手が借りて目の前の紙に書き出したりすると、その鉛筆いつ返してくれるのかな、ということが気になったりするという内容が書かれていた記憶があります。

 その本の中で、亡くなった旦那さんのことに触れている箇所がありました。そこで旦那さんの本棚(そういえば、研究が詰まっていても現実逃避でミステリを読んでしまう、というようなことも書かれていた気がします)に話がおよび、自分の本棚と同じ本があることが述べられていた、と覚えています(記憶違いという可能性は否定できません)。同じ家に暮していても別々に自分の本棚を持っている、しかも同じ本なのに自分の本を持っているということが素朴に驚きでした。

 「その人、本を読むの?」(「彼と私の本棚」p.72)

 他に好きな人ができたと打ち明けられて、返した言葉がこれです。同じように本を読むこと、同じような本を読むこと、それは関係が続いていくことを保証してはくれない。本当は関係が始まったこととの因果も薄かったのかもしれない。

 この話数の中で恋の終わりは、相手の心変わりでしたが、本棚の本が似ている人との関係は人が生きていく上で避けられない事情でも終わってしまうものだな、と思ったお話でした。

 「本を捨てれば私は幸せになりますか」(「不幸の種」p.96)

 自分にいろいろと「不幸」が降りかかっていると感じた女性が主人公の「不幸の種」。占いによって彼女はその原因を一冊の本だと特定します。ですが、その本を他人に渡したことでやがて気づくのです。

 「一年前にはわからなかったことが理解できると、私ははたと思い知る。自分が今もゆっくり成長を続けていると、知ることができるのだ。」(「不幸の種」pp.113-4)

 出来事を「不幸」にしていたのは本だったのか、それを読む自分の方だったのか。

 星野博美さんに『島へ免許を取りに行く』という本があります。以下はその中の一節です。

 「40年以上生きている人間にとって、昨日できなかったことが今日できるようになる、というのは、ほとんどありえないことだ」(『島へ免許を取りに行く』pp.60-1)

 自分の成長、というものが年々分からなくなっています。何も変わらずに無為に毎日を過ごしているのでは、と考えることもしばしばあります。

 「旅する本」の主人公も手放した本とまさしく同じ本を旅行先で手にするなど何度も再会し、その度にその本の違った側面を受け取る自分の変化に気づいていました。

 同じ本を何度も読むということを殆どしません。何か1冊の本を決めて毎年読むことにしたら、自分の変化に気づくことができたりするのだろうか、と考えます。

 さて、一番印象に残ったのは表題作「さがしもの」でした。

 「さがしもの」は余命少ない祖母の頼みで孫娘が本をさがすお話です。ところが、その本は絶版になっていて手に入れることができません。古書店をあたっても成果はなし。女の子はその本を見つけることができるのでしょうか。

 さがしもの、と言えば井上陽水さんの『夢の中へ』を口ずさみます。当たり前ですが、探し物は探していなければ見つかりません。少なくとも、自分が何を探しているか分かっていなければ、目の前にそれが現れても気づくことすらないのでしょう。

 既に存在して失くしてしまったものを探す。普通はそう考えます。でも、逆の場合もあるのでは。探しているものが実はまだ存在していない。やがてくる未来においてそれが誕生する。だとしても、やはり探していないとそれは見つからないように思います。

 「本は人を呼ぶのだ。」(p.227)

 探すのは本だけとは限りません。求めているものが見つからない時、それがまだ存在していない可能性、そして、それが存在するようになったときに求めているものだと読み切るだけの自分になっていること、この本で書かれていた本についてのことは相手が人間であっても当てはまることだらけだと思います。