ティム・インゴルド『ラインズ:線の文化史』左右社

 「黄色い線の内側までお下がりください」

 駅のホームで列車が進入してくる時によく耳にするアナウンスです。駅員さん(あるいは自動音声?)がこう言うのを聞くたびに「黄色い線」を探してしまう自分がいます。おそらく、というか間違いなく黄色い誘導ブロックの連なりが「黄色い線」だと思うのですが、それは私にとっていつもドットがつながっているものとして認識されています。レゴブロックに似ているという連想も手伝って、点の集まっているだけ、と無意識のうちに感じています。なので、あのアナウンスを聞くたびにこれは「線」なんだ、と再認識させられます。

 おそらく、この連想と認識には場所が駅のホームである、ということも関連していると思います。駅、点、線、この3つは松本清張の『点と線』をピボットのようにしてきっと私の頭の中に入っているのだと思います。

 「生の線状性とは、空間内の各地点が共時的に配列されるように、通時的に配列される現在の瞬間の継起を結び合わせる点から点へ進むラインではない。」(p.187)

 私は、この本を大きく言ってアナログとデジタルの対比を述べているものとして読んでしまいました。それは線と点との対比でもあります。

 「かつて連続した身振りの軌跡だったラインは―近代化の猛威によって―ずたずたに切断され、地点ないし点の継起となった。」(pp.122-3)

 人の一生を2次元の平面を使って喩えるなら、平面上で進んでいくのが各人の人生、進んだ後に残ったものを3次元から俯瞰して見えるのは軌跡でしょう。そして、それは3次元上から平面に予め点をプロットし、その後で点をつないでできる線とカタチとしては同じものに見えるかもしれない。

 「あらゆるテクスト、物語、旅は、見出される対象ではなく、踏破される行程なのである。」(p.41)

 でも、人生は俯瞰して線を見る事ではなくて、きっと、地面を踏みつづけながら線を描いていくことなのだと思います。上の引用はこう続きます。

 「そして、一つひとつの行程が同じ土地をめぐるものであったとしても、それらはみな他とは異なった運動である。」(p.41)

 この本はおそらく、文化人類学や人類学に属する本だと思います。人生論や人生観のような卑近なものに投影して読むべきではないのかもしれません。でも、この本に書かれている線と点の対比、ライン(の意味)がたどってきた歴史を読むと、上に述べたようなことを考えてしまいます。

 そして、それは木皿泉さんが脚本を手がけるドラマから感じられるものに似ている気がします。

 「現代の読者は遥かな高みから見下ろすようにページを測量する。」「彼はページを占拠し、ページを支配したと主張する。だが彼はページに住んではいないのだ。」(p.148)

 「旅行しようと思う者は連結の鎖として旅程を組み立て、それによって事実上出発以前に目的地に到達することが可能になる。頭の中だけで人工的に組み立てられる旅行計画は『現実の』旅が成立する前に存在する。」(p.139)

 駅の誘導ブロックが黄色い線に見えないのは、ブロックと言ってしまっている時点でそれを点と認識しているから。点が続いているだけで時間の流れに沿って進んだ動作や行程の軌跡だとは感じられないためだからだと、読んだ後になって理由づけが出来たような気がします。

 最後に、管啓次郎さんが解説を書かれているのですが、この本のことをこう言っています。

 「それにしても要約しにくい本、要約する意味のない本だ。」(p.266)

 この本の要約はどこかに存在するのかもしれないけれど、それを読んで事足れりとするのは、点をつなげることで書かれてもいない線を見る事と同じで、この本が伝えている「線」をたどることにはならないと思います。

 必要なのは、『ラインズ』を実際に歩くことだと思います。