ヤンソン『ムーミン谷の十一月』講談社文庫

 この本を読もうと思ったのは、赤木かん子さんの本で紹介されていたのを読んで興味をもったためです。

 「大声でさけんでみたって、たすけにきてくれるような人なんて、まわりには、だれもいっこないのです。」(p.29)

 タレントに光浦靖子さんという方がいます。記憶違いでなければ、何かのバラエティ番組で、家の中でつまずいて転倒した時に、一人なので助けてくれる人が誰もいなくて涙がツーっと流れた、というエピソードをおっしゃっていました。他の出演者の方はそれを聞いて爆笑していた、と記憶しています。

 掃除をしようといたフィリフヨンカというキャラクターは屋根の上に出ます。そこで滑ってしまい屋根の際へとずるずると下がっていきました。上がろうともがいてもズルズル滑るだけ。下りのエスカレーターを上ろうとして同じ場所に居続けるのに似ているかもしれません。

 「死ぬなんて、とんでもない。わたしは、死にっこないんだから」(p.38)

 その様子を傍から見ている人がいたら、滑稽に映るかもしれません。でも、もしも自分がその立場だったら。こんなつまらないことで死ぬのか、死んでしまってもしばらくは誰にも発見されないかもしれない、ああしてば良かった、こうしておけば良かったと色々考えてしまうかもしれない。そして訪れるのは、一人であったことの寂しさになるのかもしれない。

 なんとか助かったフィリフヨンカにとって、それまで当たり前に見えていたものが違って見えます。命の大切さを感じてより輝いて見える、という方向性ではありません。

 「わたしが死んでしまったら、あとは、だれがつかうのかしら。」(p.38)

 浴室で滑ってバランスを崩す時、私は似たようなことを考えます。フィリフヨンカが考えているのは、食器のことですが、私は自分がもし死んだら、この積読本、積読マンガは誰が読むのだろうと。誰にも残せない、益のないことをため込んでいるのではないかと思わせられます。

 身近に家族もなく、友達もなく、一人で生活している人がひょんなきっかけで死を意識した時に感じる今の自分が虚しいものであるという感覚は、そうでない人には分かりづらいものでしょう。場合によっては笑いの対象となることも。想像することや知識として分かっても、肌に感じるものとしては遠いのでは、と思います。どうせ私のことなんて誰も分かってくれない、という常套句に似て幼い感傷でしょうか。

 そしてフィリフヨンカはムーミン一家を訪ねることにします。いえ、とりわけムーミンママに会いに行きます。

 実は私はムーミンシリーズをこの本と『ムーミン谷の彗星』しか読んだことがなく、ムーミンママのキャラクターがどういったものなのかイマイチつかめていません。でも、きっとフィリフヨンカにとっては自分の「危機」を回避してくれる存在だと認識されていたのでしょう。

 『ムーミン谷の十一月』ではフィリフヨンカの他にも数名、ムーミン一家を訪ねてきます。それぞれに問題を抱えながら。ところが、ムーミン一家はいないのです。(その辺の事情はシリーズの他のお話で分かるようになっているのでしょうか?)はっきりと救いを求めて来たわけではないけれど、なんとなくそこに行けば良い方向に向かうような気がする場所や人たちというのはいます。それがいなかった。で、ダメになるかというと彼らは共同生活のようなことを始めます。お互いに交流していく。当初充てにしたものがなくても、危機が回避できることもある。

 「どうして、あなたは、ほんとうはないものや、ほんとうはおきなかったことばかり、わあわあいうの」(p.137)

 『ムーミン谷の彗星』を読んだ時に思ったのは、彗星は結局何だったのだろう、ということでした。何かしらの危機ではあるのですが、著者であるヤンソンさんにそう感じさせるだけの危機とは何だったのか。『ムーミン谷の十一月』でも個々人の「危機」があります。客観的に見えるよりも重要な危機のような気がします。そういった部分を作品にしたトーベ・ヤンソンという人への興味がさらに沸いた本でした。

 「目がさめたときにたいせつなのは、ねむっているあいだも、だれかが自分のことを考えてくれていた、ということなんだ」(p.279)