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青柳碧人『浜村渚の計算ノート』講談社文庫

 この本を読もうと思ったのは、数学が得意な少女が警察に協力して事件を解決していくお話だという説明をどこかで読んで興味を持っていたためです。じゃ、なかった。興味があったのは事実ですが、最近、複数の数字を見るだけでそれらの間の関係がパッと分かればいいのにな、という経験をして、数学が得意な人は数字にも強いと聞いたことがあってこの本のことを思いだしたためだと思います。

 「私は、義務教育における数学の地位を向上させることを要求する。そのため、日本国民全員を、人質とすることにした」(p.14)

 増発する少年犯罪の解決策として浮上した教育改革。それはそれまで主要教科と言われてきたものを蔑ろにし、ゆたかな人間の育成に資するであろう教科の強化を図るものでした。それに反発した数学者が徒党を組み日本国民全体に対するテロを起こします。各事件では数学がキーとなっていて、主人公側がそれを解決していく、というのがおおまかな筋です。

 この教育改革について「ことのおこりは、ある心理学の権威が、少年犯罪の急増の理由を、義務教育の内容と関連付た論文を発表したことだった。」(p.12)と設定されているので、「こころのノート」やユング心理学の大家の存在が念頭にあったのかどうか、と考えてしまいもします。

 いくつかの事件が話数として収録されているのですが、1章がlog10、2章がlog100と対数になっていたりして遊び心のある本でした。

 「ダメです!」(p.128)

 読んで思ったのは、この数学テロリストの考えは間違っているということでした。フィクションにマジレス、のようなものですが。

 そもそも、彼らがテロを起こせるのは、高校の数学教育で独占的に使われてきた教育ソフトの開発に関わり、そこに人を操れる信号をプログラムしてきたからだとされています。なので、携帯電話などでトリガーを引くだけで殺人まで犯させてしまうことができる。でも、そこまでのことができるのなら、その手段で犯罪ではなくて、数学をできる人間を造ってしまえばいいのではないか、素朴にそう思います。

 「子どもたちに、もう一度、楽しい数学を」(p.15)

なんて言ってもいますが、数学が楽しかったことのある子どもの方が圧倒的に少ないような気がする。さらに、目的が達せられて数学・算数がちゃんと教えられるようになったとして、そこには「テロに屈した」というマイナスイメージが常につきまとうのでは。

 「数学の地位を向上させることを要求する」(p.14)

要するに、自分が好きなもの、魅せられているものを他人が自分と同じほど大切に思ってくれないことへの恨みにすぎないのでは、と思ってしまうのです。

 数学の重要性を分かっていて、数学のできる人を育てない制度に危惧を抱くのなら、制度を設計・運用する側に認めさせるのではなくて、実際に数学のできる人を育てた方が目的に適うはず。特にこの小説の設定なら、犯人にはそれができるはずです。

 数学が得意な中学二年生、浜村渚はそんな犯人のカウンターパートとして際立っています。

 「学問の世界って、楽しいことばかりじゃないんですね」(p.162)

 学者の世界の人間臭い部分に触れながらも、数学の面白さ・楽しさに純粋に魅せられています。

 「ダメです!」(p.128)

 でも、犯人たちのように「間違った」使い方をしようとはしません。続編でそのあたりが描かれるのかどうか分かりませんが、数学自体や教育制度自体の外部で彼女の使用に関する倫理観は育まれてきたように感じられます。(単にまだ無邪気なだけ?)

 「もし、あいつが敵に回ったら、俺たち、ひとたまりもないぜ」(p.132)

 それにしても、数学や科学のお世話にこれだけなっているのに、どうして理系科目に対する印象や評判はあまりよくないのでしょうか。かつてスノー卿が言ったように2つの文化、ということなのだろうか、そんなことも考えた本でした。

 最後に、「あとがき」で青柳さんは次のように希望を述べられています。

 「かつてこの『浜村渚の計算ノート』を読んだ少年少女が一人でも多く、それぞれの得意分野を持つ大人に成長していること。」「彼ら彼女らが、自分の得意分野への深い愛を持って、困っている人を積極的に助けられる存在になっていること。」(pp.280-1)

 数学やコンピュータでなくてもいい。自分のできることで人に役立てるようになること。それが成長することなんじゃないのかな、とまたまた無責任に思います。

 

 以下、各話数のタイトルと覚書です。

log10.「ぬり絵をやめさせる」

 ロビン・ウィルソン『四色問題新潮文庫

log100.「悪魔との約束」

 チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ』ハヤカワ文庫

 吉田洋一『零の発見』岩波新書

 森博嗣笑わない数学者講談社文庫

log1000.「ちごうた計算」

 ポザマンティエ、レーマン『不思議な数列フィボナッチの秘密』日経BP

 来嶋大二『ひまわりの螺旋』共立出版

 近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ』学研メディカル秀潤社

log10000.「πレーツ・オブ・サガミワン」

 鳴海風『円周率を計算した男』新人物往来社

 牧野貴樹『円周率100万桁表』暗黒通信団

 吉田武『新装版 オイラーの贈物』東海大学出版会