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赤木かん子『今こそ読みたい児童文学100』ちくまプリマー新書

 「児童文学は子どものために書かれた物語ではありますが、ケータイの出てこない時代のものはもう子どもには読めないのが普通です。」(p.3)

 赤木さんは「はじめに」でこのように述べています。この短い文がこの本の中で一番印象に残った箇所となりました。

 児童文学、と聞くと子どものためのもの、内容が易しい、読むのも容易、という連想が働きます。発想が貧しい、というお叱りの声が「藁人形」から飛んでくるのが聞こえますが。そんな風に読みやすいだろうものでも、読めなくなる日がくる。でも、それは現在の子どもたちにとってであって、当時の子どもたち、つまり現在成長してしまった大人にとっては依然として読める物語である。むしろ、大人になって色々な経験をした後だからこそ「読めてしまう」部分もあるのかもしれない。

 そういえば、大崎梢さんが最近『忘れ物が届きます』という本を出されましたが、大人になってから自分が子どもだったころの社会・文化を背景にもつ本を読んだ後にも何かしら「忘れ物」が届けられるような気がします。

 さて、上に述べたのは時代のズレが要因で読めなくなる例でしたが、他にも読みにくくなる原因はあるようです。

 「活版印刷のままの本は、読みにくい、のです。」(p.177)

 1993年前後を境に活字の印刷は活版からデジタルへ移行したそうです。その流れの中で児童書はデジタル印刷から取り残されてしまった。活字という物語のいわば器、メディアの部分が読書の枷となる。話はズレますが、古文も教科書などで活字にされていれば読めますが、実際に書かれている文字(古文書などに書かれてる書体のようなもの?)が相手だと読めないことを連想します。

 と、いうわけで子どもに向けてオススメの児童書を紹介する本ではなく、大人へ向けた本でした。

 「この本、面白いよ、と言ってしまって相手がその本を読んで面白くなかったら・・・そのかたの人生の貴重な自由時間を何時間か、無駄につぶさせてしまうことになります。」(p.213)

 たしかに、人から紹介された本が面白くなかった時、損した気分にはなります。でも、その読書時間が無駄になるかどうかは、また別の問題のように思います。

 仮にある本を読んで面白かったとして、内容や面白かったということを後年まで覚えていられなかったとしたら、その本を読まなかったのと同じことなのでしょうか。

 「できることは限られるけど、確かに大人は子どもを助けることができるのです。」(p.93)

 それは大人同士でも同じことで、本の中身の外側で「その人がその本を薦めた」ということ自体が遂行的(パフォーマティブ)な働きを持つのではないでしょうか。推薦者が誰かに面白い時間、幸福な時間を過ごして欲しいと思った、その想いの存在は残ると思います。

 それは子どもには気づけないことで、大人だから分かることなのかもしれないのですけれども。

 紹介を読んで、読んでみたくなる本がたくさん載っている本でした。