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佐々木敦『「4分33秒」論』Pヴァイン

 「四分三三秒の間、まったく演奏がされない、それが『4分33秒』という曲である。」(p.15)

 ジョン・ケージが作曲した『4分33秒』のことは知っていましたし、ジョン・ケージの著書名『サイレンス』も気になっていました。沈黙、ということに個人的に非常に興味があるためです。その『4分33秒』について全5回(各約3時間程度)行われた講義の書籍化ということでこの本を読むことにしました。

 冒頭で佐々木さんご自身がそんなに話すことがあるのだろうかと危惧されていたりもするのですが、『4分33秒』というたった1曲のために多くのことが述べられている本でした。

 まず印象的だったのが、なぜ4分33秒という長さだったのかという点。正確なところは分からないそうですが、4分33秒は273秒、絶対零度も273度(でもセ氏ですよね、華氏だったら・・・)から来ているとする説、人がギリギリ沈黙し続けられる長さが4分33秒だったとする説(学級崩壊が頻発しますね)などなど色々あるそうです。

 「CDは何回繰り返し再生したとしても、中に入っている音は同じです。でも聴いた回数だけ、実は毎回異なる経験が起きているとも言える。」(p.44)

 そして、『4分33秒』(ついつい「『4分33秒』」ともうひとつ括弧でくくりたい衝動にかられます)を経験できる人は現在ではいないという点。

 初演は1952年、デヴィッド・チュードアによって行われたそうです。そのときの観客はおそらく『4分33秒』という曲が始まると思ってチュードアさんがピアノに座る時を迎えたはずです。でも、何も始まらない。何か事故が起こっているのか、このピアニストはおかしくなったのか、などなど様々なことを思ったかもしれません。その中で、まさしくこれが『4分33秒』で今自分はそれを「聴いている」と認識できた人はどれだけいただろうか、というお話になる。

 「『4分33秒』という作品はリアルタイムでは存在していないと思うんです。後からあれはああいう四分三三秒だったんだと、遡行的に『作品』が生成されていくと考えるのが明らかに常識的でしょう。」(p.208)

 『4分33秒』がその時間だけ全く演奏のされない曲である、と知ってしまった後ではもう前に戻れなくなる。聴衆は既にその「沈黙」を期待して待ってしまう。初演で体験されたものを再び感じることが難しいというのはよく分かる話です。実際、それを逆手にとり、ソニック・ユースのサーストン・ムーアという人のヴァージョンではバリバリに演奏されていたりもするそうです(p.92)。あるべきものがないことを示すのなら、「あるべきもの」が「ないこと」だと想定されるとき、「ある」ようにすれば目的は達せられる、というお話です。

 あと面白かったのは、『4分33秒』タイムマシン説です。

 「『4分33秒』という作品は、体験したら絶対に四分三三秒後に行ってしまうんです。」(p.216)

 私は電車に乗るときに似たようなことをいつも感じます。例えば、2時間かかる場所へ行くのなら、(物理的な距離も移動してしまいますが)2時間後へ行くという風に。

 話は脱線しますが、ある曲の速い・遅いは何を基準に感じているのでしょうか。仮に同じく演奏に5分かかる曲があるとして、開始から終わりまでに流れる時間は同じ5分です。でも、テンポの速い曲、遅い曲という区別はついてしまう。片方の曲の中でも速い部分、遅い部分という区別がついてしまう。

 電車での移動なら、それは動いた距離で測れるでしょう。楽曲の場合、単位時間あたりに詰め込んだ音符の数でしょうか。では、それが休符ばかりだったら。全て休符だったら。

 『4分33秒』という曲は速い曲なのか、遅い曲なのか。

 「『4分33秒』はフレームしかないので、純粋なタイムマシンと言えるわけです。」(p.218)

 こんな風に今考えていて、速い曲の裏には効率性やコストパフォーマンスそして善いという価値判断を付随させています。遅い曲にはその反対のものを。

 単位時間内の音符の多さ、細かさで速さを感じるとしたら(四分休符4つと八分休符8つは同じなのだろうか、など考えてもしまいますが)、『4分33秒』は速い/遅いという判断をすり抜けていくのかもしれない。

 『4分33秒』は曲であり、ジョン・ケージによって作曲されたものだけれども、その時間の幅をもっと長く、それこそ人の寿命全体にまで伸ばして考えてみたときに、フレームの中身がない、ということはどういうことなのだろう、そんなことを考えてしまってよく分からなくなってきました。

 「I have nothing to say and I'm saying it 」(p.100)

 ジョン・ケージの言葉だそうです。