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星野博美『のりたまと煙突』文藝春秋

「なぜ大学の正門前のバス停が『富士重工前』という名前なのか。」(p.84)
時折、自分が考えている(と自分で思っているだけかもしれない)ことと似ていることを他人の言葉で読みたくなることがあります。それは自分がひとりではないと安心感を得たいだけなのかもしれません。
標識などで「~前」となっているのに当の「~」に該当する建物・場所がない場合、それはどこへ行ったのだろう、と考えることがあります。あるいは、それが存在しなくなった過程に思いを馳せたりもします。
例えば、とても大きな力が全てを流し去ってしまった時。新しく何かが建てられたなら、それはその建物の名前で呼ばれる場所になるのかもしれない。でも、依然として「~跡地」であり続けたなら、それを奪っていったものの存在をそのものの不在が静かに語りかけてくるような気がする。
「そこにないものは、なかなか見えないのだ。」(p.82)
星野博美さんの文章を読むと、必ず自分に似ている、と感じる考えや捉え方に出会えます。
「花は、なぜ自分がそこに置かれているのかを雄弁に語る。そこにこめられた意味に気づいた時、世界がまったく逆転して見えることがある。」(p.98)
花が示すのは、そこで誰かが死んだということ。その誰かを弔う別の誰かが存在するということ。その多寡は、死んだ人のそれまでの人生の何事かを示唆するのかもしれない。そして、花からそんなことを考えている自分自身についても。
「月だけがぴったり窓にはりついて私たちを追いかけてくるのだ。」(p.142)
子どもの頃、車窓からずっと同じ月が見えているのが不思議でした。まるで月が追ってきているように感じました。
「かつて自分が住んでいた場所を時々訪れる。そして、いまどんな人がそこで暮らしているのかを確かめたくなる。」(p.174)
自分が以前住んでいたアパートを遠くから目にしたことがあります。あの部屋には今、どんな人が住んでいてどんな暮らしをしているのだろう、と考えたりしました。
「ずっと続くと信じられるなら、誰も写真など撮らないだろう。しかし人は知っている。この時が永遠には続かないことを。」(p.287)
集合写真が物悲しいのは、そこに映っている関係が無くなることが既に前提されているからかもしれません。写真は撮られる度に、もうそれがなくなることを静かに告げているのでしょう。
似ている、と思っているのは自分の勝手な思い込みでも、似ていると感じる分だけ違いが際立ってきます。例えば、以前の著作で星野さんは写真家になるにはどうすればいいですか?と尋ねてくる人に対して「大事なことを端折らないで」という主旨のことを書かれていました。
大切なことを端折ってばかりで、それをダメだと批判することもできない根性なし。芯の部分での違いは致命的です。
ひとつひとつは陳腐なことで、ありふれた誰でも考えたり感じたりすることなのかもしれない。本当は自分の言葉で考えなくてはいけないのかもしれない。でも、考えたいこと、感じたいことを他人の言葉で読みたい時がどうしてもある。そんな時、ついつい星野さんの文章を読んでしまいます。