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山形孝夫『砂漠の修道院』平凡社ライブラリー

「出家なのか、家出なのか、動機においては区別がつかない。」(p.70)
この本を読もうと思ったのは、修道院に興味があるためです。
「わしらは、この世のしがらみからの逃亡者にすぎんのじゃよ。政治や権力や俗世間の名誉だけじゃあない。この世が無理矢理おしつける、ありとあらゆる責任、義務!自分への絶望もあれば悩みもある。そうしたすべてからの逃亡者、それが修道僧じゃ!」(p.105)
読みながら素朴な疑問が沸いてきました。あらゆるものから逃げているはずが、修道院に入ったり、修道僧になったり、未だどこかに所属するようだったり、何かでなければいけなかったりするのはどうしてなのだろう。逃げているとされる対象から外れたものとしてではなく、そこでそうあることがそれだけで済むようなカタチで在ることはできないのでしょうか。
「人間は、どのようにあがいてみても、自分が忌避すべき現実から、結局のところ、逃げだすことなどできないのだろう。」(p.162)
そんな風に考えたり感じたりするのは、修道院や修道僧を客観から見ているからで、主観から捉えたなら、そんなこともないのかもしれない。
でも、自分が何かから逃げる術として出家という道を考慮に入れるとして、それが別の何かへの入家を意図していたとしたら、逃げているつもりが形を変えた同じものに捕えられている可能性は大いにあるな、と思います。
「修道院は、第一に、そしてあらゆる意味において、墓場であることを、わたしは、砂漠の僧院にきて知った。」(p.134)