最相葉月『セラピスト』新潮社

「私は、カウンセリングに対してうさんくささを感じていた。」(p.21)
絶対音感』、『星新一 1001話をつくった人』などで有名なノンフィクション作家最相葉月さん。これまで読んだ著作はどれも面白いものでした。今回の対象はセラピスト、それも本の紹介から察するに河合隼雄中井久夫という業界の重鎮が中心になっているらしい。というわけで読むことにしました。
「大学院に入学してから最短でも三年、学部から数えれば七年、資格を取得してからも更新の手続きを必要とする臨床心理士と、短期間の講座を受けて実習経験も乏しいままで開業できる資格を比べると、教育や訓練の差が出るのはやむをえないだろうが、カウンセラーとしての自覚と自律はその根本的な相違ではないかと思われた。」(p.71)
出発点ではカウンセリングにうさんくささを感じていた最相さんが取材をすすめる中でうさんくささではないものを明らかにしていくのか、それとも実際に胡散臭いものであることを示すのか、どう展開していくのだろうと読み進めていきました。でも、読んでいく中で徐々に違和感を感じていきました。
本なので始まりがあって終わりがあるのですが、その過程の中でうさんくささとされていた評価の変遷があるのではなく、叙述の中に既にカウンセリングというもの自体への肯定が感じられたためです。もしも、いかがわしい・うさんくさい部分があったとしてもそれはカウンセリング自体ではなくて、実際に運用する側つまりセラピストの能力に依っている。
「医師が自分の診察してきた患者について多少のフィクションを交えながら一般向けに紹介する本は世にあふれているが、中井にはそのような本はない。注意深く避けている。患者を売らない。」(p.228)
カウンセリングやセラピーを職人芸のようなものと捉え、そういった技を磨きにくくさせている要因にも触れられています。
「費用対効果はどうか、エビデンスに基づく治療であるかどうか、といった説明責任を求められる慌ただしい臨床の現場で、ただ黙して何か月も患者のそばにいるシュヴィングのような姿勢は、口惜しいことにすでに過去のものになっている。」(pp.248-9 下線引用者)
そういった展開を読んでいても、記述から滲み出てくるカウンセリングへの肯定と最初感じていたうさんくささとの落差は私にとって謎であり続けました。
「『あなたが自分の心を考え始めたたとき、ユングの理論はあなたにとってものすごく有用なときがあるんです。それは、しかし、あなたにとってですよね。すべての人にとってではないです』河合隼雄はそう語っていた。」(p.324)
でも、この本を最後まで読むとその謎は解けるようになっていました。少なくとも私は最相さんの記述からうかがえるカウンセリングへの信頼にも似た肯定感は腑に落ちるものとなりました。この本に書かれている内容の中で最相さんが出会ったセラピストと呼ばれる人たちはうさんくさい方の施療をする方々ではなかった、ということなんだと思います。