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長田弘『すべてきみに宛てた手紙』晶文社

この本を読もうと思ったのは、あるブログの記事を読んだためです。
「実際はちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何かをやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです。」(p.11)
この本は、昭和の歌謡曲のような題名です。この題名を見てあるマンガの主人公のことを思いだしていました。天野こずえさんに『ARIA』というシリーズがあります。主人公は火星にある人工都市(ネオ・ヴェネツィア)で観光用の小舟乗りを目指す少女。彼女は地球出身でお話の随所で誰かに宛ててEメールを送っています。宛先は最終回付近で明らかにされるのですが、その設定のことを思います。
手紙を書く、ということは特定の誰か=宛先が予め決まっているように思います。でも、宛先が事前に特定されていないこともある。誰かに宛てている以上、それは手紙なのだけれど、誰かに読まれた時点でその「誰か」が相手として事後的に決定される。「誰か」は読まれるまでは誰にでも開かれている。「きみに宛てた手紙」の「きみ」はきっとこの本を読むことになる読者。でも、読んだ人全てが「きみ」になるかというと、そうでない場合もあるような気がする。
この本を読みおわって自分は「きみ」だったのだろうか、「きみ」になれたのだろうか、そうぼーっと考えます。
「ことばがあなどられるところに、人の、人としてのゆたかさはない。」(p.22)
やはり、引っかかってきたのは言葉について述べられている箇所でした。
スペシャリストは自分の言葉をもちません。自分自身を、自分の言葉で定義しません。」(p.121)
私は感想文の大半を引用によって埋めています。他人がその人自身の文脈において使った言葉を使って、というよりそれに甘えて依存して文章を作っています。そんな態度は何かに大切なものを譲り渡しているのかもしれないし、言葉を蔑ろにしているのかもしれない。
地声を失ってしまっている役者がいる。それも主役をつとめてきたような役者に多い」「セリフは上手でも、『自分自身と声との間につながりがないから』、心の底から感動させられるということがなくなっている。」(p.94)
私はよく『千と千尋の神隠し』に出てくるカオナシのことを連想するのですが、他者の声で他者の言葉を使い過ぎたカオナシの顛末を思うと気持ちが暗くなってきます。