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多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書

「言語を使ってものを考えることができるということ、それが絶望の淵にあってもわたしたちを救う。」(p.118)
映画『ハンナ・アーレント』を観たことに触れる中で多和田さんは上にあげた言葉を引用しています。
多和田さんは「普通の」日記と言語に関することだけを記した日記をつけているとのことで、その言語に関する方がこの本でした。
私は毎日の生活の中で言葉と自分との距離を考えることが度々あります。自身のことや状況を言葉で捉えている。ダメ、無理、できない、ツイている、幸せだ、恵まれている、言葉はいろいろだけれど、そうやって考えている内に捉えているつもりがいつの間にか捕えられている。
「文法に思考を譲り渡してはいけない。『黙る』時、そして『死ぬ』時こそ、直接目的語を捜した方がいいような気がする。」(p.60)
多和田さんは「黙る」という動詞が通常他動詞として使われない点に着目します。私は何かを語るとき、語りの対象として選ばれなかったものが語られていない点を気にすることがあります。でも、黙るときに対象を選択しているという点を考えたことはありませんでした。語っているときは、語っていないものを選んでいることは語りの目的語を選んでいることに隠れている。そこで語りがないとき、「黙る」だけがあるとき、沈黙の対象が浮き上がってくることが新鮮な認識でした。
「単語はわたしの生まれる前から存在し、独自の歴史を持ち、わたしが死んでも全く悲しまずに、存在し続けるだろう。」(p.61)
既存の言語を借りて使っているだけ。他の言葉で言いかえができないのか考えてみれば、できる場合もある。
以前、「彼女と結婚できて幸せだ」という文をHe is lucky to marry her.のように訳しているのを目にしたことがあります。厳密な正しさは分からないけれど、luckyという単語で表現できるなら幸せの中には自分の実力では左右できない部分も含まれるというように認識を改めることができるような気がします。
言葉にずぶずぶと拘泥するのではなく、外にあるものだと考えるとこの本の題名の「と歩く」の部分が腑に落ちてきます。確かにそれを使って表現したり考えたりするのだけれど、連れ添うようなもので自分とは別物である言語。
「どこかに絶対の規則が存在すると仮定するより、すべてが常に運動の中にあると考えた方が言語とはつきあいやすい。」(p.35)
読んだ後で言葉と肩の力を抜いてつきあっていけるような気がする本でした。