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岸政彦『同化と他者化』ナカニシヤ出版

この本を読もうと思ったのは、確か荻上チキさんだったと思うのですがtwitterでこの本のことをつぶやいていたのをどこかで読んで興味を持ったためです。
「ここでわれわれは大きな問題にぶつかることになる。過去から直接に継承されるわけでもなく、また差別や暴力への抵抗から政治的に動員されるわけでもなく、むしろ文化的にはきわめて同化主義的な労働力移動が、なぜ大規模なUターンという帰結を生んでいったのか、という問題、本書全体を通じてあきらかにしたかった問題である。」(p.289)
この本を読んでいて素朴に疑問だったのが、「他者化」されることとUターンすることが同じこと、つまり、日本本土の人としてのアイデンティティを持ち同化することが企図された過程で逆に沖縄の人としてのアイデンティティが強くなることと沖縄に帰っていくことは同じことなのだろうか、ということでした。
この本では二つの移動に焦点が当たっています。沖縄から本土への移動(就職による移動)と本土から沖縄への移動(Uターン)です。
沖縄から本土への移動では、オーソドックスに考えると沖縄の景気が悪く職が見つからないので、就業機会の多い本土へ人が動いていくという説明がもっともらしく聞こえます。でも、この本では、実は沖縄の経済は悪くなかったので、沖縄から本土への移動には経済的な要因を越える何かがあったとしています。
「経済的要因に還元できない移動を『過剰移動』とよぶことができるのなら、この時期の沖縄からの労働人口流出は、まさに過剰移動というにふさわしい。」(p.92)
また、沖縄へのUターンに関しても、ありがちな理由づけとして考えられる差別や劣悪な労働条件ではないものの影響を見てとっています。
「差別や貧困、過酷な労働よりもむしろ、あこがれて渡った本土で楽しい生活を送った『にもかかわらず』Uターンしてしまうという、ノスタルジックな語りが問題となるのである。」(p.420)
二つの移動に関して定型的な理由では説明できない部分を指摘し、本土への移動に主に同化を、沖縄へのUターンに主に他者化を見出しているのですが(著者の結論から言えば、同化と他者化は同じものの裏表になると思いますので、二つの移動は同じことの二つの過程かもしれないのですが)、その同化=他者化をあぶりだす役目をもっている「にもかかわらず」がそれほど強い逆接を持っていないとしたら、楽しい生活を送って帰っていくのが順接だとしたら、どうなるのだろうと思います。
「それはつねに日本の都市との対比において語られる。」(p.11)
この本を読んでいて感じるのが本土/沖縄という二項でお話が展開しているのに、実は本土(の都市)/沖縄であって、本土の地方はどこにいったのだろうということです。日本の地方との対比では語られていないようです。
日本の都市と地方の間でも労働人口の移動はあるだろうし、Uターンもあると思います。その場合、Uターンした人たちはAではないものとしてのBとして他者化されたことを示すのでしょうか。そもそも、都市への流入が「過剰移動」ではなく、Uターンも「過剰」ではなく説明が求められるものではないから沖縄の場合とは違うという話かもしれないのですが、個人的に今の場所が大きくマイナスではないにも関わらず、田舎に帰ることが選択肢の一つとして現実味があること、それはもともと来た場所だからいつかは帰っていくものだという既定路線のようなイメージであることを考えると、他者化されて帰るという説明の仕方に違和感を覚えます。
「戦後の本土就職で起きたことは、むしろ日本人になろうとして逆に沖縄に『アイデンティティのUターン』を招いてしまったという、矛盾するプロセスなのである。」(p.385:下線引用者)
本土就職における日本人への同化は「なろう」というものだったのでしょうか。4章に書かれている就職者のための合宿訓練のくだりなどを読むと、それは「しよう」とするものだったように感じられます。
Uターンを他者化と呼べるのは、それを日本人への同化のある種挫折と捉えられるからであって、その同化が「なろう」とするものではなく、「しよう」とするものだったとしたら、「なろう」とする主体の同化対象が「しよう」とする側とは逆だったとしたら、そこには同化から他者化へ転じる挫折はなく、ただ沖縄への同化だけが進行しているという面はなかったのでしょうか。
著者が聞き取り調査の中で語られた定型的な語りの中に「沖縄の人はみんないずれは故郷に帰るものだ」という語りが含まれています(p.285)。定型的な語りによる本土就職からUターンにいたるストーリーを「『同化主義的な他者化』のプロセスそのものをあらわしている」(p.287)とされていますが、定型的な語りの使用が(同化しようとする視線からの)「同化主義的な他者化」というよりも、「他者化」で示される内容に予め「なろう」、つまり対象を異にした同化、もっと言ってしまえば「なろう」よりも結果的に「なってしまった」という意図や欲望のない同化のプロセスを表している、ということはないのだろうかと思いました。