ヴィルヘルム・ゲナツィーノ『そんな日の雨傘に』白水社

この本を読もうと思ったのは、題名が気になっていたためです。
「自分の人生が、長い長い雨の一日のようで、自分の身体が、そんな日の雨傘のようにしか感じられなくなった人たちですね。」(p.113)
自分の身体が雨傘だとしたら、傘の下にあるものは一体何になるのでしょうか。
「私はつぎつぎと積み重なったいろんな序の口だけの理解にもみくちゃになり、ますますなんのことかわからなくなっている。」(p.69)
「~入門」と銘打った本は数多くあります。そういった入門書をいくつか読むだけでどの分野でも応用以上に進もうとせず、自分のこともよく分からなくなっている状況が主人公の独白に重なってきます。
この本について書いた文章の多くが靴の試し履きという主人公の変わった仕事に触れています。他者の立場にたつこと、他者の視点で考えること、そういったことの比喩に他人の靴を履くことが用いられることがありますが、彼が新しい靴を試しに履くだけで自分のものとして履いているわけではないこと、お話が進むと報酬の減額に応じて現物支給されたその靴を蚤の市で売ってしまっていることは、主人公の自己同一性が借り物で移ろっていること、いろんな序の口だけしかないことを示しているのでしょうか。
「死んでいく人ってのは、生き続けてく人間みんなに腹が立つんだよ。」(p.91)
死ぬということが出生から始まる継続する出来事だとすれば、「生き続けてく人間」とは徐々に死んでいく過程にある人間のことであり、腹を立てている「死んでいく人」の怒りの矛先が分からなくなります。
「人間は大人になってもずうっと思ってるもんなんだって、子どものときに望んだことがかなえられれ・・」(pp.30-31)
大人になった人が子どもの頃の願望を口にするのは、大人になった今もそう願っているからなのかな。
語られている言葉同士には一貫した意味なんてないのかもしれない。作中、意味の探索を病的だと主人公が感じているように、この本の内容からなんらかの秩序だった意味を読みとろうとすることも病んでいるのかもしれないなと読みながら思いました。