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ケネス・E・フット『記念碑の語るアメリカ』名古屋大学出版会

この本を読もうと思ったのは、ある場所の名称を目にしたためです。その場所は「○○跡地」と表記されていました。最初見たときは何も感じなかったのですが、2度目はその「○○」が無くなったのはどうしてだろう、と何気なく自問していて、その理由として想像できるものがあり、想像通りだとしたら、そこに新しい何かが建っているのではなくて依然として「○○跡地」であることがその理由が及ぼした影響の大きさを語っているように感じられました。いや、今そこには何もないわけで、語るモノはない、ないことが「あったこと」を伝えるのは、ない以前の状態、かつてあったときのことを知っている人がいてこそ。
同じ流れの中で慰霊碑や慰霊施設も映っていて、大きな出来事があった場所に建てられるものや建てられないことが伝えられる人に対して「語る」ことが気になりました。『記念碑が語るアメリカ』のことはそういった本があることは前から知っていて、今回、そういった経緯で読んでみました。
「沈黙は両義的な役割を担い、一般の人が考えるのとは逆に、発語間の空白以上の意味を持っている。」「抹消された場所は発話行為における空白と同様の機能―不在だが意味に満ちた―を担っているのであろう。」(p.170)
ここで空間の沈黙として示されているものは件の「○○跡地」と文脈が異なるものなのですが、沈黙が言語遂行的な効果を持つというのは私が「○○跡地」から感じたことと重なってきました。
忘れないこと、覚えていることとはどういうことなのだろうと素朴に思うことがあります。
「安全措置が講じられることによって、まるで小さな形見のように、災害とその犠牲者たちは我々の生活の一部となる。」(p.161)
この本で挙げられている例の一つとして道路脇の小さな十字架があります。かつては自動車事故の犠牲者を悼み道路脇に小さな十字架が立てられることがあったけれど、それはやがて姿を消していったそうです。そういった変化
犠牲者の死への鈍感さをみとり批判する向きに著者は反論しています。十字架は消えたけれど、新しいガードレールや広い路肩など、より安全な道路に変わっていること自体が慰霊碑だと。
時が経てばその場所が「語る」ものを「聞ける」人も減っていくような気がします。でも、一般的な意味合いで覚えているか忘れたかを気にするよりも、その出来事から得た教訓を活かし、より安全なものよりよいものへと変えていければ著者がこの箇所で言っているような意味合いで忘れないことになるのかな、とも思いました。
「災害が起こった場所が我々の視界から消えても、決して我々の心の中から消え去りはしないのである。」(p.161)