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K.デイヴィッド・ハリソン『亡びゆく言語を話す最後の人々』原書房

この本を読もうと思ったのは、あるサイトで紹介されているのを読んで面白そうだなと思ったためです。
「平均寿命まで生きれば、彼は間違いなくいつか最後の話者となり、チュルイム
で話しかける相手もいなくなってしまう。」(p.159)
ある言語を話す集団の構成員が死んで少なくなっていけばやがてその言語も亡びてしまう。世界中にはそんな危機に瀕している言語がいくつもあって、ハンソンさんたちはその言語を保存する活動をしているようでした。
「言語とは頭のなかだけに、というより話者の頭のなかだけに存在するのではなく、その土地ごとの風景やそこにある事物、さらには生活様式のなかに存在するのではないか」(p.51)
話者がいなくなる、言語がなくなるとそれらをとりまく世界の捉え方や知識も消滅してしまって多様性が損なわれていく、という考えは説得力があります。
「知的・芸術的に高度な社会を示す指標として口承文学が重んじられることはないのである。」(p.241)
確かにそうかもしれないなと思ってしまいます。でも、ハンソンさんたちがそうだというのではないのですが、単純に言語を守り保存しなくてはいけないとして話者たちが他の言語の使用を選ぶのをよろしくないとする見方が出てくるとしたら、それはどうなんだろうなと思います。
例えば経済的理由、社会的に成功する道を行くために「自分たちの」言語を差し置いて英語を使った方がいい状況下
英語の使用を選ぶ人を批判的に捉えていいのかなと思います。
その一方で言語というほど大きな括りではないのですが、感じたことを方言
表したときのしっくり感、標準語で言ったときには感じられないぴったり感を思うと「自分たちの」言語がなくなることで失われるものは確かにあるとも思います。それが何かと問われれば、定義しろと言われれば難しいのだけれど。
きっと、こっちをとるかあっちをとるかという問題ではないのだと思いますが、環境保護の話題の中で都会で便利さを享受している人たちが自然を保全するという理由で田舎に住む人に不便さを強いるような構図があるように、似たような感じにならないのかな、と思いました。
と、また藁人形を作りながら読んでいたのですが、ハンソンさん自身からそういった方向性を感じにくいのは、彼に話者や言語を含む文化のようなものを知ろうとする姿勢を感じるからだと思います。研究対象のことを分かろう分かろうとしているスタンスを強く感じるからだと思います。