山内令南『癌だましい』文藝春秋

この本を読もうと思ったのは、あるブログの記事を読んだためです。読んだ理由として他に2つほどあります。
ひとつはレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読んだことです。『沈黙の春』の中で、ガン予防(発がん性物質などの環境汚染への対策)に力を入れるよりも、ガンに罹っても完治できる方法(薬)の開発に注力したほうがいいのではないかという考えに対して特効薬は大事だとしながらも、まだがんにかかっていない人や生まれてもいない次の世代のために予防は大切だという趣旨のことが雑に言って述べられていました。言葉としてそれは正しいとは思うのですが、レイチェル・カーソンががんで亡くなったことを考えると、ともすれば予防が間に合っていれば自分がかかる可能性は低くなっていたのでないかと考えてしまうおそれもある話題を記すとき、どんな気持ちだったのだろうと思いました。
もうひとつは、『ケ・セラ・セラ』という歌のことを偶然知ったことです。歌自体はむかし『アリー・my・ラブ』の中で使われていたので知っていました。今回知ったのは、この歌が『知りすぎていた男』という映画の中で使われていたということでした。それを歌った役は『ケ・セラ・セラ』の歌詞のようには到底思えないような状況にいて、でもその歌詞は声が届いてほしい相手にとっては慰めとなるものかもしれなくて、言葉は自分の気持ちとは裏腹であっても使えるものだけれども、その距離が大きければ大きいほど使うときに痛みや苦しみを感じるものではないのだろうか、と思いました。
そこで『癌だましい』ですが、読むきっかけとなったブログの記事によると自身のがんと距離を置いた書かれ方をされているようだったので気になって読んでみました。表題作「癌だましい」と「癌ふるい」が収録されています。
読んでいて感じたのは強い違和感でした。
「癌だましい」の場合、それは主人公の女性をわがままだと感じるためかもしれません。
「職場の癌であることは、旧来の職員から聞き及んでいた。」(p.77)
利用者
にも同僚にも迷惑をかけているだろうにそれを気にもしていない。
「人のことなど構ってはいられない。食べている間、麻美は全身全霊をもって食べることに打ち込む。」(p.73)
そして食生活にこだわっている設定にも関わらず、このお話から感じられる食への拘泥は単なるエゴによるもので他へのつながりが何も感じられない。
もしも自分ががんだったらこうなのではないか、自分にとってきちんと食べるというのはこういうことのはず、そういった思い込みを裏切る内容が綴られているから受け入れられないのだと思います。
いや、主人公にとっての食を本に置き換えて考えてみれば、自分も似たようなものかもしれないことに気づいてしまうから読みつづけることに抵抗を感じたのかもしれません。
「癌ふるい」でも何かが違うという感じは持ち続けました。
自身が癌にかかったことをメールで報告した女性は知人たちから返信を受けとります。その返信内容を採点して並べてあるのが「癌ふるい」の主だった内容です。
罹患の報告というのは本人はもちろん受けた側も動揺してしまうものだと思います。書いてある内容は内容として、本人の気持ちが分からないとどう返していいものか迷いが生じます。
そんな報告に対する応答を採点するという態度が何か人間を試しているように感じられて、病気になった本人の心の揺れを差し引いても違和感を感じます。
でも、「癌ふるい」の最後で女性は素直な気持ちである言葉を口にしています。病気が人をふるいにかけるものだとしたら、最後に残されるのは何なのだろう、と考えてしまいます。
この二つのお話に山内さんご自身がどれほど反映されているのかは分かりません。ただ、二つのお話とも癌にかかっているのは45歳の女性でともに食道癌のステージⅣという共通点はあります。
子どもを喪ってしまうかもしれない女性が未来はなるようになるわ、という歌を歌ってしまえるように、このお話を書く中で山内さんはどんなことを考え感じていたのだろう、と思ってしまいました。