末次由紀『ちはやふる』18巻 講談社

ちはやふる』というマンガの18巻目を読みました。
「同じ相手との3試合って・・・こういうことか」
この巻の中では、部分とそれが集まったときの違いが気になりました。仮に同じ相手と1日に3試合しても、途中に別の相手との試合を挟むのとそうでないのとでは意味合いが違ってくる。
「言葉にするとそうなるの?」
それは百人一首の決まり字でも同じかもしれない。2文字目が決まり字だとしたら、素人である私は2文字目を聞くまでどの札か確定できないと思ってしまいます。でも、登場人物の一人は決まり字の前の1音の高低を聞いていると言っています。決まり字の前の1音は文字としては同じかもしれないけれど、次にくる文字によって、そのつながりによって音は特異なものになっているのかもしれない。部分としてみたときに同じものでも、全体の中、連なりの中でみたときに別のものであるというのは試合の組み合わせに通じているように思います。
「私はそういう『積もっていく』という考え方が好きです」
部分部分で見たときに同じものであったとしても、それがいつ積もったのか、何の後に積もったのか、何の前に積もったのかという繋がりが意味を持つということをこの巻を読んでいて強く感じます。
「綾瀬はクイーンになれる子でしょうか・・・・!?」
学生時代の先生は生徒よりも長く生きているのが常です。高校までの人生がその全てである生徒に比べてより長い全体の中で「いま」が持つ意味を見通せるのかもしれません。先生も人間なので、どうしようもない方もいらっしゃるかとは思いますが。でも、そうやって生徒の行く末を案じてしまうのが先生や大人なのかもしれません。
「受け売りをするために教師になったんですよ」
記録に残るよりも記憶に残る選手になりたい、と言ったのはたしかプロ野球の新庄選手だったと思います。国語教師だった大村はまさんは、生徒に覚えていてもらえなくてもいい、生徒がきちんと文章を読み書き話せるようになっていればいい、そうなるように自分が教えることができればいい、それが教師というものだ、という内容のことをどこかで書かれていました。
主人公に同じ相手との連続3試合を組んだのはある先生でした。
「綾瀬さんにしかつけられない自信があるわ」
その先生は主人公を別の男の子と試合させることで彼の才能を開花させる思惑も持っていました。この先生が彼らの記憶に残るかどうかは分かりません。でも、カルタを上達させるという目的のために試合を組み合わせている彼女は大村はまさんが言う意味でのいい教師のように思います。
受け売りに過ぎないという批判を容易に引きつけるように、教えるということの中にはオリジナリティは見出しがたいのかもしれません。抽象的な物言いですが、それでも、教える相手にきちんと力をつけさせているとしたら、それは立派に仕事を成していると言えると思います。