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米原万里『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川文庫

この本を読もうと思ったのは、積読になっていたためです。ロシア語の通訳者であられた米原万里さんのエッセイ集で次の3篇が収録されています。「リッツァの夢見た青空」「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」「白い都のヤスミンカ」。今気づきましたが、青・赤・白でトリコロールになっているんですね。フランスを意識していたのでしょうか。
「丸い栗色の瞳をさらに大きく見開いて真っ直ぐ私の目を見つめるアーニャは、誠実そのものという風情だった。」(p.189)
一番印象に残ったのは表題作「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」です。その中でロシア語のチースタヤ(純血、清潔)という言葉に焦点があたるくだりがあります。米原さんの友人がチースタヤを清潔という意味合いで使っているのに相手の方が(民族としての)純血として捉えてしまってコミュニケーションが若干すれ違っている箇所でした。
真っ赤な嘘という表現があるために、真っ赤な真実という表現は「嘘つき」にひきづられて使われていると最初は思っていたのですが、チースタヤの話を読み、この文章自体も読んでいるうちに、実は真実を形容している赤は流された血だったり、共産主義と呼ばれる考え方だったり、そういったものを示唆している可能性もあるのではないかと思えてきました。
そう考えると、「嘘つきアーニャ~」でのアーニャの最後の言葉も嘘であることが暗に示されているのですが、そう言うしかないように時間が人を「変えた」としても、子どもの頃の嘘と同じように嘘だとばれてしまうこと自体の中に含まれる真実のことも考えてしまって、それも「真っ赤」だとしたら、辛い感じがします。
あと、この本を読んでいて感じたのは米原さんはどこにいるのだろう、ということでした。
青、赤、白とそれぞれ米原さんが異国で過ごした少女時代の違った友人を軸に語られています。それぞれのお話の中で未出の友人は固有名をもって登場しない印象を受けます。例えばアーニャのお話にはリッツァが登場してもヤスミンカは「いない」ような感じです。ヤスミンカのお話にはリッツァもアーニャも登場します。
結局、この本は3人の友人について書かれているのですが、実は4人目がいる。
ブカレストでアーニャの両親と兄のミルチャに逢った後で、ベオグラード行きの夜行列車に乗った。」(p.245)
これはヤスミンカのパートに書かれていることですが、アーニャのパートを読んでいるときには、米原さんがヤスミンカにも会おうとしているとは気づけません。というより、順番に読んでいく読者にはヤスミンカはまだ存在していない。
「校舎の中は、ほとんど昔と変わりなかった。」(p.185)
大人になりアーニャと再会した米原さんは二人で母校を訪れます。その際、レストランから母校への場面転換は一瞬です。実際には移動中に交わされた会話もあっただろうし、他にもいろいろあったかもしれない。でも、書かれないものは存在しないように見えてしまう。
3人の級友について書かれた文章の中には常に4人目、米原万里がいたはず、あるいは級友たちの目から見たらヨネハラマリだったかもしれない少女もいたはず。
この本の解説は斎藤美奈子さんが書かれています。斎藤さんはその最後で奇しくもこう言っています。「私たちに求められているのもまた『具体的に生きる誰か』に対する想像力です。」(p.301)
この本で書かれた同じ時間の中で米原万里、もしくはヨネハラマリが書かれなかった部分でどんな少女だったか、ということが何故か気になって仕方がありませんでした。