朝吹真理子『きことわ』新潮社

この本を読もうと思ったのは、たしか、何かの賞を受けたと思うのですが、それは理由としては弱くて、どなただったかのブログで紹介されていたのを読んで興味を持ったためです。でもどのブログだったかは忘れてしまいました。
子供の頃、縁あって一緒に遊んでいた貴子(きこ)と永遠子(とわこ)。縁が切れてしまった2人が25年ぶりに再会する。かつて2人が遊んだ思い出の地で子どもの頃を回想していく。お話の筋としてはこんな感じだと思います。
「生きていればひとつくらい好きな花ができるだろう」(p.50)
「むかしは、書いたひとのいないものだとして本を読んでいた。」(p.74)
「いっしょに寝ても、眠るときはひとりきりよ」(p.95)
登場人物が話したり思ったりすることが、朝吹さん自身をどれほど反映しているかは分かりません。でも、この本の登場人物たちは好きでした。発言を聞いていると、「世の中」からはみ出ていくことでも包み込んでいく包容力を持っているように勝手に感じられたからかもしれません。
あと、この本を読んでいて気になっていたのが永遠子という名前のことです。名前が持つイメージ喚起力というか、名前がその人物を束縛する力というか、そういうものを連想してしまったためです。実際に永遠子という人がいたとして、その人に接する人はその都度、永遠という時間について触れたり考えたり思ったりしてしまう気がします。そして永遠子さん自身も、物事に臨むときに永遠という観点で捉えることが多くなるかもしれません。
ある私の同僚ですが、名前の一文字が音から通常想定される漢字とは違っている人がいます。通常想定される字の方がその人にはぴったりなので、それも手伝ってよく間違えられています。社内の何かの公式の名簿でも間違えられていました。でも、その間違えられる方の字ではなくて、実際に彼女にその字がついているということが、彼女に対する両親の想いを如実に表しているように感じられて、彼女の顔を見るたびにその想いの存在を感じて、世の中の親と呼ばれる人たちは子どもの誕生に対してそんな風に思うものなのかな、と考えてしまいます。
気付きやすい例が印象的ですが、他の方の名前でも同じようなイメージの拘束力が働いているのかな、とぼーっとしました。