貫井徳郎『灰色の虹』新潮社

この本を読もうと思ったのは、どこかで紹介か評判を読んで興味を持ったためです。
「私は逮捕されるまで、社会の片隅で誰にも迷惑をかけずに静かに暮らしていました。それなのにある日突然濡れ衣を着せられ、生活のすべてを奪われてしまったのです。私はやっていません。やってもいないことを認めてしまったのは間違いだったと、今は深く後悔しています。嘘ではありません。私は誰も殺したりしていません」(p.240)
冤罪と、それへの復讐。お話の筋は簡単に言ってしまえるものかもしれません。でも、そういったまとめでは、この本の「内容」を十分には伝えきれないように思います。
刑事に任意同行を求められ、取調室で自白を強要される過程を登場人物とともに経験していく時間は苦痛以外のなにものでもありませんでした。
「やってもいないことで有罪になるなんて、そんなおかしなことがこの日本で起きるわけないわ。」(p.218)
その、起きるわけのないおかしなことが実際に起こっていくのを読んでいると、朔立木さんの『命の終わりを決めるとき』を読んだときの印象を思い出しました。朔さんの本では警察と検察で追い詰められていく様が描かれていたのですが、その時に感じた恐ろしさを思い出しました。
「誰も悪くない。それなのに、ひとりの男の人生が完全に破滅した。」(p.419)
復讐の方を捜査することになった刑事がこんな風に考えている箇所があります。そして、復讐自体を次のように言っている箇所もあります。
「復讐の連鎖だ。不幸は際限なく続く。それでいいんですか。それが、あなたの望むことなんですか」(p.543)
でも、復讐心に燃える人にしてみれば、自分の復讐と連鎖とは別のものなのかもしれない。望んでいるのは、「この」復讐を遂げることであって、連鎖ではない。連鎖を生むのは、「その」復讐を行う人であって、連鎖を止めるかどうかも、「その」復讐を行う人に決定権は握られている、と考えることもあるかもしれない。
そんな風に考えると、最初の冤罪について「誰も悪くない」とする考えには、実際にその殺人を犯した人物が漏れていることに気づきます。
何かが起こるとき、「何か」に含まれるそれぞれを実際に行った人の責任はどれくらいになるのか。自分が何かをするときに、その行為の影響が及ぶ範囲とそれへの責任をどれだけ覚悟しているのか、そういった問いを突き付けられているように感じるから、冤罪が作られていく過程に恐怖を感じながらも、自分自身がその作っていく側にも容易に加担しうるということを忘れられずに余計辛くなってくるのだと思います。
「あなたのような人がいるから、世の中から冤罪がなくならないんだ。」(p.521)
そんな風に原因を一人の人に帰することができれば、どんなに楽だろうか、と考えてしまいます。