奥泉光『シューマンの指』講談社

この本を読もうと思ったのは、本屋大賞ノミネートだったから、というようりもあるブログの記事を読んだためです。
「自分が花ならば、どうしたって咲きたいよね。どんなことをしてでも咲くのが花の使命、というか運命だよね。」(pp.277-8)
咲かなくたって、花だと解かってくれる人はいるんじゃないのかな。とりわけ「どんなことをしてでも」の部分がこの本で描かれていたような手段だったとしたら。
「音楽を心に想うことで、僕たちは音楽を聴ける。」(p.15)
このお話の中心人物である男の子は、音楽をイデアのようなものと捉えて、各演奏はそれを不完全にするようなものだ、という考え方をしているようでした。演奏されなくても、音楽はすでにそこにある。
The truth is out there.
「完璧がありえないのはたしかだけど、それへ一歩でも近づこうとしなかったら、それは消えてしまう。」(p.222)
「本当の」音楽が存在するとして、それはア・プリオリではなくて、それを志向する一回一回の演奏という運動の中でその都度生じているとしたら、演奏の放棄は「本当の」音楽の放棄になるのかもしれません。
先日、深夜の暗闇の中に映える桜を見ました。その美しさは淫靡といってもいいくらいの艶めきを持っていました。どんなことをしてでも咲こうとする花になぞらえられる音楽への志向と聞くと、音楽にその桜のような美しさを期待してしまいます。そして、魅入られるという言葉を使えるのはそういった存在に対してではないのかな、とも思います。でも、このお話で描かれている「音楽」には、そんな意味での魅力を感じることができなくて、その「音楽」に翻弄されているはずの登場人物たちの動きにもあまりグっときませんでした。