山根一眞『小惑星探査機はやぶさの大冒険』マガジンハウス

この本を読もうと思ったのは、はやぶさが地球に還ってきて燃え尽きる時のあの映像が気になっているためです。私もあの映像を見て感動しました。感動の種類は分からないけれど。でも、そこで無意識にはやぶさを擬人化して捉えていることがずっと引っかかっています。ミッション遂行のために殉じたように見えるし、実際あの燃え尽きる映像はインパクトが強かったと思います。SFアニメみたいだった。

「『どうして日本のテレビは、この歴史的なできごとを生中継をしないのかね』と聞かれ、『お笑い番組やワイドショーで忙しいので』と返答するわけにもいかず困った。」(pp.252-3)

はやぶさが大気圏突入して燃えていったとき、私はtwitterのTLを見ていました。私は動画を見ていなかったのですが、盛り上がりから多くの人がネットの動画で見ていることを感じていました。同時にTVもつけていました。TVではそんなことなどなかったかのように普通に番組が進行している。まるで異なる二つの世界を見ているようでした。『サマーウォーズ』というアニメで仮想空間内で世界の危機と闘っている人たちと、現実空間で高校野球を戦っていた球児たちの対比を思い出してしまいました。

「技術的な実験をじっさいの宇宙で行い、将来の惑星探査に必要になる技術を手にすることがいちばんの目的なのである。」(p.80)

もしも、あの火球の画がなかったら、と考えてしまうのは不粋すぎるでしょうか。私は宇宙開発の意義や、今回のミッションの意味とかそういった諸々を分かってはいません。でも、あの画像には感じるところがあった。それで本まで読んでしまっている。光でやり遂げたことを見せつけることもできないけれど、それでも地道に大変なことをやり遂げている人たちがきっといる、といったようなことを勝手にあの火球を象徴にして連想してしまって引きつけられるかもしれません。そうやって勝手な想いや考えを仮託しているから、あの動画を何度見ても感動するのに、その感動が後ろめたいのかもしれません。

もしも、あの瞬間を生中継すべきだった、と安易に言ってしまうとしたら、中継・報道すべきだったのは、本当に「あの」画像なのだろうか、と思ってしまいます。逆に「あの」画像だったからこそ、中継すべきだったと言ってしまうのかもしれない、と思います。