村上春樹『1Q84 BOOK1』新潮社

この本を読もうと思ったのは、ベストセラーだったためです。

1巻目を読んで、何か感想を書いてしまったら、そこで負けのような感じを受けました。というか、その路線で考えるのなら、読んでしまった時点で負けなのだろうけど。

「その教祖には名前があるのですか?」(p.438)

「その壁には名前がある。"システム"」(あるスピーチより)

読みながら思ったのが、この小説も真実を明るみに出すためにつかれた嘘なのだろうか、ということでした。それも人から個人性を奪っていくシステムに抗うことが企図された。

「パッケージの特質によって内容が成立する。その逆ではなく」(p.517)

「世の中の大半の人間は、小説の値打ちなんてほとんどわからん。しかし世の中の流れから取り残されたくないと思っている。だから賞を取って話題になった本があれば、買って読む。」(p.50)

この小説の中に、ある作者とゴーストライターと編集者が関わっている作中小説があります。そこでは、その作者が内容だけではなく、外見=文章も作ったことにした方が話題性があるという判断がされていました。その作者の特徴とは、美人女子高生、でした。

小説のセールスに書かれているコト以外の部分が大きく関わっている点がこの『1Q84』の発売までの秘密主義と重なってきて、内容が「ムラカミハルキ」というパッケージによって成立しているとしたら、内容を知らなくても報道に流されて買ったことが「人格や判断能力を持ち合わせていない」かのような行為だったとしたら、村上さんが立っているのは、卵の側ではなく、壁=システムの側なのではないのかな、と感じられます。

「ここではない世界で、人々はここにいる私たちとだいたい同じようなことをしている。だとしたら、ここではない世界であることの意味はいったいどこにあるのかしら?」(p.552)

「ここではない」と「ここにいる」を逆にしても、つまり「ここにいる私たち」の意味も問われてくるように思うのですが、先ほどの小説のことを考えると、同じような内容であっても、パッケージの違いがそのものを成立させるとするなら、ここではない/ここにいる、の違いは意味を持ってくるように思えて、それは匿名性に回収されてしまうシステムに抗って個人を擁立するようにも感じられるのですが、そこには同時にパッケージが成立させるという抽象度の違うシステムが駆動していて、あれではなくてこれが成立させるという固有性の判断を担保するものが不問にされているような気がします。

と、考えてくるとまるで村上さんを批判しているようですが、そうやって考えること自体が「システム」の存在を俎上に載せているわけで、それは隠れている「システム」に光を当てるというのが目的であるとしたら、達せられているわけで、まんまと思惑にはまっているような気もします。

でも、自分もシステムに乗っかることでシステムを暴露しているとしたら、その暴露手段としての嘘(lie)がフィクションとして政治家たちの嘘とは違って不道徳性を問われないとしても、自分が立たないといった側に立っている事態はフィクションの外部でのことで、その点については問われることにならないのかな、とぼんやり思いました。