大塚英志『「おたく」の精神史』講談社現代新書

この本を読もうと思ったのは、積読本になっていたためです。多分、「大きな物語」という言葉の関係で大塚さんのことは知っていて、『多重人格探偵サイコ』(だったかな?)でいろいろと有名そうなイメージを持っていました。

この本の副題は「1980年代論」となっていて、80年代といえば、私が子ども時代を過ごしたことになる頃で、この本で言われている80年代が自分の子どもとしての世界の外側にあったもののように感じました。確かに同じ80年代という時間を生きていたようでありながら、この本で書かれている時間というか社会というか世界というか、そういったものは自分が送っていた毎日とは違っていたなあ、というのが素朴な感想です。都会と地方という差はあったのかもしれないけれど。

ひとつ懐かしかったのが、人面犬のお話しでした。私が聞いたことがあるのは、出くわすと「放っておいてくれよ」と言って去っていくという特徴なのですが、当時人面犬の話を聞いて感じていたのは、自分がどうしていようと出くわすときには出くわしてしまうのではないか、というどうしようもなさでした。いい子にしてようが、悪い子にしていようが道端でばったり出くわしてしまうときは出くわしてしまう。人面犬にあいたくないな、と思いながらもそれを避ける確実な術がないことを他の不合理や避けられないことの象徴のように暗に感じていたように今になって思います。

読んでいて印象的だったのが「おたく」という表記について書かれて箇所です。

「ぼくはこれらの文化に対し何か特権的な価値があるなどと気軽に謳う気分になれないのだ。」「だから私的な体験に拘泥し続けるために『おたく』と記す。」(p.320)

単純に私的なことにこだわるという考え方が好きだから気になったのだと思います。

「オウムが語るから詭弁であり、オウムでないものが語れば『正論』として通用する。」(p.366)

私的な部分を省いたり、避けようとして何かを言っているのを聞いたり読んだりすると、そう言ってる人は何者なのだろう、と言っている人のことが気になることがあります。詭弁と正論を分けるのが語り自体ではなくて、語りの主体だとすれば、私的な部分にこだわった語りはその部分が分かりやすくて、読んでいてある種の安心感を抱くのかもしれません。