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『サマーウォーズ』

映画の感想

サマーウォーズ』というアニメ映画を観てきました。この映画を観ようと思ったのは、『時をかける少女』の時に観ようと思ったときには既に上映が終わっていて後悔したことがあったので、今回は早めに、と思ったためです。監督が『時をかける少女』と同じ細田守さんでした。

「それって、ゲームの中のことよね」

電子テロとそれに巻き込まれた高校生=主人公が中心のお話しでした。お話しの中では社会的インフラのほとんどがネット上の仮想空間オズに依拠しているので、そのオズを乗っ取られることで大混乱が起こっていました。

『ダイハード4.0』とか電子テロのお話しで連想することがいくつかあるのですが、電子テロと聞いて、あくまでネットワーク上というか、現実に物理的存在ではない部分での出来事だから極度の不便さを我慢できれば、汚染されたネットの部分を切り離すことで現実世界のほうは少なくとも人命に影響がでないのではないか、と知らず知らずに考えていることがあって、お話しの流れで主人公たちは田舎に来ていて、実際社会がマヒしつつあるのは都市部で、田舎の旧家の中がパニックの外にあることで冷静な判断ができている面があるようにも見えて、ますますそういう風に暗に思ってしまっていたのですが、いろんな物理的なものを制御していたシステムが狂ってしまうということは人の命に関わることだと展開していて、ゲームやネットの中のことだとして軽く考えてはいけないなあ、と思いました。

で、その電子テロはある大きな事件に発展するのですが、先日読んだあるブログの記事に書かれていたことを連想してしまいました。

この映画の中で世界の危機と闘っていたのは、ネット(オズ)の中で何が起こっているか把握できていた人たちで、そして、その人たちが何をしているのか、やっていることの意味が何なのかをフォローしている人たちがいたからこそ、という展開もあったりするのですが、その裏(表?)で現実世界では甲子園出場を賭けて野球の試合で闘っている人たちもいて、仮に現実に何かそれこそ世界の危機になるようなことが起こっていても、それを知らされていなければ普通どおり日常を送っていくだろうし、そんな日常の裏で危機が秘密裏に回避されれば、そんな危機ははじめから無かったかのように進んでいくだろうし、今、中東情勢とかで既存のメディアが伝えられないことをブログなりネットなりが伝えている、という話をよく読んだりするのですが、そんな知っている/知らないという境界がネットに接続している/していない、ネットの情報をフォローしている/していないという区別に重なる部分が大きくなれば、物理的に近い場所に位置していたとしても、人によって認識している世界が違うということがあるように思えて、ちょっと考え込んでしまいました。

W.リップマンが書いた古典とされている『世論』の書き出しにこんな話があります。ある島に3カ国から来ている人がいました。彼らの国同士が戦争を始めました。ところが、その報せが彼らのもとに届くのに時間がかかるため、戦争がはじまっても彼らは仲良く日々を送るままでした。たしか、こんな感じのお話しでした。同じ場所にいても、ネットに繋がっている人が世界の危機と闘っていて、つまり戦争状態で、すぐ隣にいる人はネットに繋がっていないために戦争状態ではない、という状態を想像してしまいました。

多分、戦争というと、どこどこの地域で起こっているという風に物理的な場所によって起こっている場所とそうでない場所が区別されるかもしれないのですが、そういったことがズレていく可能性を考えてしまうお話しでした。

あと、ネットで起こっていることをフォローしている人たち、主人公たちがしている「戦争」をROMっている人たちの存在がお話しの展開に大きく関係していたと個人的に思うのですが、そういった人たちが大きく影響できるのは、主人公たちがやっていることがフォロワーたちに分かりやすいからで、GUIとかアバターの存在とか、そういえば、オズの中では言語が自動翻訳されることになっていました(←そんな言語障壁の無い状態はムハマド・ユヌスさんが理想としている状態だったような気がします。)分かりやすさというのは大事なんだなあ、と思います。

先着特典とかでポストカードをもらったのですが、そこにキャッチコピーが書かれていました。「つながりこそが、ボクらの武器。」つながることができるのは、分かりやすさに支えられているからかなー、とぼんやりします。