鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった』新曜社

この本を読もうと思ったのは、あるブログの記事を読んだためです。副題は「心理学の神話をめぐる冒険」となっていて、多分「脱神話化」の本なんだろうと見当はつくのですが、「オオカミ少女」がなんなのか私は全然知らなかったので、???という感じで読んでみることにしました。他のトピックが面白そうだったので。

「ウォーフ流の強い仮説に対して、言語の違いが思考や認識にある程度影響するという、穏当な仮説は、『弱い』言語相対仮説と呼ばれる。問題は、『弱い』言語相対仮説は残して、極端な形の言語相対仮説だけを切り捨てることがなかなか難しいという点である。これは、オオカミ少女やサブリミナル広告の話を切り捨てると、野生児や閾下知覚もついてきてしまうのと同じである。」(p72)

この本を読んでいて、一番印象的だったのが、上に引用した部分です。多分、『ヒトデはクモよりなぜ強い』を読んでいたときに、組織のつぶし方が気なって、それを引きずっているからだと思うのですが、引用部分を逆に考えれば、言語相対論の弱いバージョンも野生児も閾下知覚のことも「ある」と思っている人でも、それをつぶそうと考えたときに、オオカミ少女やサブリミナルの実験(映画館でのコーラとポップコーンの有名なもの)のように疑わしいものを見つけて、それをつぶせば、残りの全部もいかがわしいものとして葬り去ることができたりするんじゃないのだろうか、と思うからです。

単純に、ある人の信用をなくすためにスキャンダルを作る、というサスペンスドラマとかでよくあるパターンに似たものかもしれないのですが、一部の否定が全部の否定につながるように人が思うとすれば、人がものごとを捉えるときに、一貫性という前提が大きく縛りをかけていることを示しているのかなあ、と思います。昨日の私と今日の私が全くの別人だったら、とても困ってしまうのですけれど。