池内了[編]『雪は天からの手紙 中谷宇吉郎エッセイ集』岩波少年文庫

この本を読もうと思ったのは、あるブログの記事を読んだためです。熊木杏里さんの歌に『雨が空から離れたら』というのがあるのですが、雪とか雨とか空から降ってくるものが空を離れる瞬間を捉えることになんとなく引かれるところがあって、この本のタイトルがそういうことを指し示しているかどうか分からないのですが、読んでみることにしました。

この本を読んで思ったのは、寺田寅彦さんが面白そうだな、ということと、中谷さんの科学に対する考えというか姿勢と、既にこういうことが言われていたのに、あんまり人に知られていなかった(というか、最近でも、まるでそれが最近発見されたかのように大事だと言われる)ことの不思議さでした。

「『茶碗の湯』の中に全物理学の姿を見ることのできるような人は、なかなかいない。」(p76)「正義に対する、学問に対する真剣な情熱からきたものであることは、言うまでもない。寺田さんがそういうものの敵を憎む態度は、それが日本の権威であっても、また世界の権威であっても、そんなことには頓着なく、実に男性的であった」(p104)いずれも寺田寅彦さんについて書かれた部分なのですが、興味を持ちました。あと、夏目漱石にも興味を持ちました。

「新聞では、活字の配置と重点の置き方で、全くの嘘ではないが、まるでちがった印象を読者に与えるように書くから困ると言われるようである。この抗議はいかにも急所をついた話であって、今日のジャーナリズムというものの本質の一面をよく表わしていると思われる。」(p124)この箇所が含まれている文書は1938年に書かれたそうです。今現在、メディアリテラシーが大事だよって言われるときに出てくる視点と通じていると思います。たしか、パオロマッツァリーノさんの本だったと思うのですが、メディアリテラシーメディアリテラシーと言われるけれど、そもそもメディアリテラシーって言葉自体がそれほど認知されていないじゃないの、って感じのことが書かれていて、言葉自体がどーかは分からないのですが、報道とか、客観的とか言われることに伝える側の思惑だったり恣意性だったりが入り込む余地があることが再三指摘されるのって、なんでかなあ、とぼんやりしました。

「ある事物の決定に科学的な根拠があると言う時には、よほど注意しないと、科学的根拠と思いこんでいることが、案外非科学的根拠である場合がありうるのである。」(p128)「科学の発達は、原子爆弾水素爆弾を作る。それで何百万人とかいう無辜の人間が殺されるようなことが、もし将来この地球上におこったと仮定した場合、それは政治の責任で、科学の責任ではないという人もあろう。しかし私は、それは科学の責任だと思う。作らなければ、決して使えないからである。」(p162)今の感覚から考えれば、古風な感じがするかもしれないのですが、こういった責任の捉え方は好きでした。

ファインマンさんのエッセイを読んだときも思ったのですが、科学者のエッセイの中にはいい感じのものがたくさんあって、そういったことを感じさせるような理系の先生がいたら、文系一直線みたいな今の自分っていなかったのかもなあ、とぼーっとしました。でも、文系の方向性で頑張ってみたからこそ、この本を読んでこんな風に感じたり思ったりできるのかもしれません。

「それが何度変転してもかまわない。その時々に大まじめでさえあれば、きっと何かが残るものである。注意すべきことは打算的な考え方をしないという点だけである。と、この頃考えるようになった。」(p256)