伊勢崎賢治『武装解除』講談社現代新書

この本を読もうと思ったのは、元々積読本になっていたのですが、あるブログの記事を読んで読んでみようかなと思ったためです。でも、読もうと思ってから結構時間が経ってしまって、それは本の内容が自分にとって不都合な真実のような予感がしたためでした。副題は「紛争屋が見た世界」となっています。

「非常に不謹慎であるが、内心、紛争を心待ちにしているように、紛争から紛争を渡り歩く専門家集団。これを僕は"紛争屋"と呼ぶ。」(p45)「現在、この世の中には、人間の発展に関するたった一つの方向性しか示されていない。"それ"はまず、市場経済をもって地球上をくまなく支配させようとする力であり、それを受け入れられないような遅れた国々があるとしたら、それらを積極的に介入して、旧態依然の呪縛から解放してあげようというものである。それが国際協力の根本の動機である。」(p213)

私は伊勢崎さんが出演されていた爆笑問題の番組を観たことがあるのですが、その中で特に印象的だったのが、「奴らは確実に殺している」という感じのセリフで、常日頃、顔をあわせる人たちが過去に殺人を犯している可能性は、ここ日本ではあまり高くないと思うのですが、伊勢崎さんたちが仕事をしていた場所(社会)では、その可能性がとても高いようで、そういった場で生活している現地の人たちはどんな感覚で日々を生きているのだろう、と思います。

伊勢崎さんは教えている学生に次のような課題を出すそうです(p100-)自分がシエラレオネ人で学校の教師だとして、内戦中に妹がゲリラ兵に両腕を切断されます。やがて妹はその学校に通えるようになるのですが、ある日彼女の様子が変化します。彼女の腕を切断した元ゲリラ兵(村に帰還しています)が自分のクラスに復学していたためです。で、課題ですが、自分の中の復讐の気持ちをどうするか、伊勢崎さん自身だったら必ず復讐すると前置きした上で問うそうです。

学生からは復讐するという答えはまず返ってこないそうで、「日本の若者は非常に良識がある。」「日本人は捨てたものではないと思う。」(p102)と評されています。この部分を読んで思ったのは、もしかしたら、良識があるからではなくて、自分たちが生活している社会の中で想定できることと、課題として設定されている状況の差が激しいために、そこで抱く復讐心を体感することができず、ある種理性的な返答ができるという側面はないのだろうか、ということでした。

実際の現地の人も復讐せず和解するのが大勢のようです。ただ、その理由は復讐する気力すら失わせるほどの絶望のためだとされています(p103)

こういった本を読むのをためらうのは、自分はこの本を読んでどうしようというのだろう、と考えてしまうためです。この本の帯の裏表紙側には「机上の空論はもういらない 現場で考えた紛争屋の平和論!」と書かれています。この本の最初の部分で伊勢崎さんがいわゆる象牙の塔の世界やそれから派生する問題を批判されて箇所があるのですが、例えば、この本を読んで言及して机上の空論や今の日本政府の在り様や方向性のことを批判する人がいたとして、その多くは普通の生活を営む普通の人のような気がして、何か働きかけをするわけでもなく、自分がそうだから多くの人もそうだろうと思っているだけかもしれないのですが、でも、こうやって本を読むというのはどういうことなのだろう、ましてや、その本のことを論評したり、ときには論争というものに変化する(変化させようとする人がいる)のは、どういうことなのだろう、と考えてしまいます。