木村元彦『終わらぬ「民族浄化」セルビア・モンテネグロ』集英社新書

この本を読もうと思ったのは、積読本になっていたためです。コソボ空爆後の六年間を綴ったルポということでした。

「自分には背景に関する深い歴史知識がないんですね。」(p249)巻末に木村さんと柴宣弘教授の対談が収録されているのですが、その中で木村さんはこんな風におっしゃっています。で、この本は現地で取材したことが書かれているのですが、背景に関する深い歴史知識を現地の苦しんでいる人たちは持っているのだろうか、とふと思いました。

「自分のことに比べればもうどうでもいいこと。弟もいなくなったし、家も失った。何もない。国名が変わったことがどうだと言うのです。」(p172)こんなインタビュー内容が書かれている箇所がありました。外から見ている人にとってみれば、マクロな視点からの変化やその意味合いを内の人の言葉で捉える(というか裏を取る)ようなことを求めてしまうのかもしれませんが、そこにいる人にしてみれば、そういったことは「どうでもいいこと」なのかもしれなくて、仮に木村さんの発言を文字通り受け取って深い歴史的理解がないとしても、例えば、そこにいる人の抱える問題ややりきれないこととかはちゃんと伝わっているように思えました。「招かれざる人間にも真摯に接するその態度と亡き息子に対する愛情。驚く程に似通う二人。けれど岐阜県程の面積しかないこのコソボで、互いに交わることは絶対にない。なぜ彼らは憎しみ合わなければならないのか。」(p226)

「今、私たちがどんな生活を強いられているか見て欲しい。苦しいですが、あなたに話すことで楽になる部分もあるのです。自分たちには誰も関心を払ってくれないのだから」(p94)「あなたは四年間ここに通ってきた。私たちの窮状を知らせると言って。私もあなたに協力した。でも四年経って何が良くなったと言えるの?あなたがここに来て私たちを取材しても状況は少しも変わらなかった。結局あなたの存在は解決の何の足しにもならなかった」(p229)

この本は出勤前に読んでいて、途中で仕事にいって、帰ってきてまた読んで、次の日も同じようにしていたのですが、読んでいるときに木村さんの記述を通して見ている世界と、自分が実際に生活している世界とのギャップが激しくて、例えば、いつもの交差点上空から飛行機が爆弾を落したらとか、拉致されたりとか、帰ってきたら、誰か知らない人に家が占拠されていて、家財一切合財を失うとか、そういったことがかなり当たり前な感じで起こりうる世界と同じ空の下で、そういった心配が全然ないここで生活していることの差について考えてしまいます。誰かや何かが悪くてそうなっているのか、たまたま自分が幸運なだけで、運の問題なのか。そんなことを考えたり、本に書かれている方々の窮状や苦しみや悔しさなどを想像したりすることはできても、実際には何もできなくて、本を読んで知ろうとすることは自分にとっては偽善だな、と思いました。