緑川ゆき『夏目友人帳』1巻 白泉社

夏目友人帳』というマンガの最初の巻を読みました。このマンガを読もうと思ったのは、アニメ化ということで、本屋さんでプッシュされていて、読んでみようかなと思ったからです。

物の怪が見える主人公の男の子は、ある日偶然、ニャンコ先生(妖怪)と出会います。で、男の子の祖母も物の怪が見えたのですが、友人帳というものに、奪った妖怪たちの名前が記されていて、記された妖怪たちを友人帳の持ち主が統べることができるということで、ニャンコ先生が欲しがっていました。男の子はその名前を持ち主に返していこうとするのですが、という設定のようでした。

物の怪が見える(そして、そのことによって、変な子として周りから疎外される)という設定を聞くと、他のことに敷衍して考えてしまいます。別に物の怪に限らず、世の中の多くの人が「見えない」ものを「見える」人もいるように思えて、その「見える」人も同じように疎まれてしまっているように思うからです。

昨日、『プロフェッショナル』という番組は緩和ケアに携わっているガン看護の専門看護師さんを特集していました。で、その中で看護師さんは、人は表情では嘘をつきにくいので、言葉じゃなくて、表情から察するようにしている、という感じのことをおっしゃっていました。その後の場面で、患者さんとのやりとりを写した場面があって、患者さんの手をカメラは捉えていました。ぎゅっと握り締められた手が、抗がん剤など治療という意味での打つ手がなくて、おしまいだということへの患者さんの想いを表わしているように見えて、カメラマンさんは、そういったことを感じて映していたんだろうか、とも思えて、いろんな観点で、人それぞれで他の人の「見えない」ものを「見える」ことがあるんだなあ、と思いました。

みんないろんな仕事をしているし、その仕事に付随した知識のようなものがあって、それによって「見える」ことが違っていると思うと、みんななにかしら他の人が「見えない」ものを「見えている」かもしれなくて、そう考えると、疎まれるか疎まれないかの差は「見える/見えない」ものが普通の人にとってどうかということかもしれないのですが、みんな何かが見えていて見えていないとすれば、そういった「普通/普通じゃない」という境界も曖昧になっていくような気がしました。

とてもやさしいお話しが多くて、落ち着いた気持ちで読むことができました。次の巻も読もうと思います。