『シゴフミ』三通目

シゴフミ』というアニメのDVDの3巻目を観ました。この巻には第5話「タダイマ」第6話「サケビ」が収録されていました。

「タダイマ」は、ネコさんを追いかけていくお話しなのですが、上空から駆けていくネコさんを俯瞰しているシーンとかあって、なんとなく、風景というか目に見える景色が変化していくことが、道のりを連続的にみたときに気付いてしまうように思って印象的でした。前に読んだ佐藤信夫さんの本の中で、「Aでないことはない」という二重否定は、結局「Aである」という肯定で、論理的には同じだけれど、一度「Aでない」と思ったあとで「『Aでない』ことはない」と思うのは、時間が存在しているわけで、論理的には時間は存在しないけれど、レトリックには時間が存在するって感じのことが書かれていて、本当は道のりの中で移り変わっている風景も、断続的にみるとその変化は気付きにくくて、連続的にみたときに気付きやすいってことがもしあるとすれば、似ているなあ、と思って印象的でした。

「サケビ」はイジメを扱っているのですが、最初の被害者である男の子のセリフが印象的でした。クラスメイトに助けを求めるときに、いじめている側が悪いと言うのですが、僕は悪くないという理由の中で「いじめていたこともある」という感じのことを言います。自分は本当はいじめる側の人間で、本当はいじめられる側ではない、だから悪くないと考えているように聞こえてしまって印象的でした。その男の子がお話しの最後で送るシゴフミは、いじめていた人たちへの恨みではなく、助けてくれなかった(自分の苦しみを理解してくれなかった)クラスメイトに対する憎しみが綴られていました。それは、擬似的な敵を作らせられて、争わさせられているように感じられて、「本当に」悪いモノがお咎めなしのように感じられて、嫌な感じのする話数でした。