宇沢弘文『自動車の社会的費用』岩波新書

この本を読もうと思ったのは、自動車を運転するのが怖いからです。先日、3年ぶりくらいに運転したのですが、後ろの車が車間距離を詰めてきて非常に怖かったです。制限速度50キロのところ、前の車が40くらいで走っているから、しょうがないと思いながらも、後ろの運転手はきっと私に怒っているんだろうなあと思って胃が痛かったです。と、いうわけで、本当にほとんど運転しないのですが、歩行者として車の往来を見ていると、みんな殺気立っているように感じられて、なんでかなと思います。あと、横断歩道で待っているときとか、運転している人をよく見るのですが、携帯電話で話しながら運転している人が結構いて、この人って、自分だけは事故を起こさないと思ってるんだろうけど、もし起こしてしまって、おまけに人死にまでだしちゃったら、携帯電話を使っていたことを後悔するのかなあとか考えて、後悔するんなら最初から使わなきゃいいのになあと思うと同時に、後悔しないような人だったら、それはそれで怖いと思います。

さて、この本の中では、「社会的費用」について次のように説明されています。「外部不経済をともなう現象について、第三者あるいは社会全体に及ぼす悪影響のうち、発生者が負担していない部分をなんらかの方法で計測して、集計した額を社会的費用と呼んでいる。」(p79-80)この本の中で言われていることのひとつは、この社会的費用を自動車を運転する人が負担していないということだと思うのですが、道を歩いていて、横断歩道を青信号のときに渡っているときでさえ、自動車の進行を妨げるとドライバーからイヤーな顔で見られることがあって、なんでかなあと思います。

社会的費用のひとつに、自動車犯罪があげられているのですが、連れ去り事件とか起きたときに、例えば、使用された自動車が悪いという風に、マンガ・アニメやゲームを批判するときと同じように批判されることってないなあと思いました。本の中でアメリカの話も書かれているのですが、アメリカと言えば銃を連想しますが、例えば、アメリカの銃規制に賛成する人も、自動車の規制には賛成しないような気がします。

本の中で、車を無くせとは言っていないと思うのですが、(車道と歩道をきちんと分離した道を作ることで、社会的費用としてのコスト分を予め組み込んでおくというような考えだったと思います。)「このような道路で、歩行者に危害を加える危険性が非常に高いことを知りながら、自動車運転をおこなおうとするのは、どのような倫理感をもった人々なのであろうか。」(p71)というような部分を読むと、そんなこと言ったって、そういう狭い道路網がはりめぐされることで、恩恵を受けているでしょとか、いろいろと自動車と交通網があることの長所をつらつらと述べて反論する人がいるような気が勝手にしますが、自動車とのいい付き合い方ってどんなかなあとぼんやり考えてしまいました。