あさのあつこ『バッテリーⅡ』角川文庫

この本を読もうと思ったのは、Ⅰを読んだためです。

野球のお話しでありながら、小学校卒業後の春休みのお話しだけで終わってしまった1巻目で、あだち充さんもびっくりな引っぱり方という雰囲気を勝手に感じていましたが、この巻の最初でも中学校に入学したものの、まだ野球部には入っていませんでした。がってん、がってん、じゃなくてビックリビックリ。

「『バッテリー』を少年の成長物語などと言わせるものか。友情物語などに貶めたりしない。絶対にしない。(略)既成の物語の枠組みに、易々とはめ込まれてしまうような陳腐な物語にして堪るかよ。」(p348)あさのさんは「あとがき」でこのように書かれています。

『バッテリー』のキャッチコピーのひとつに「これは児童文学なのか」といった感じのものがあったと記憶しています。この2巻目のお話で対立しているもののひとつは、主人公の少年と既成の秩序(具体的には学校文化)だと思います。あさのさんと『バッテリー』を受容するものとの対照と、少年と学校の対照は似ているように思うのですが、既成の物語でない方向を目指したものが「(いい意味で)児童文学らしくない」とワンフレーズで括られてしまうことは、既成のものから逃れようという面では(別の既成のものに回収されてしまうという意味で)失敗してしまうことを示唆しているように感じられて、それは同時にお話しの中の少年も負けてしまうのではないかという連想につながってしまって、作中の言葉では「現実」ということになるかと思うのですが、なんとなく暗い感じがしました。

あと、最初の方で、職員室まで「連行」されたのに胸先三寸で服装違反とならなかった箇所があるのですが、そこで職員室の雰囲気とか読んでいて、仮に職員室で誰か生徒に暴行をはたらいたとしても、周りにいる「同僚」たちはなかったことにしたりして、誰も生徒を助けない感じがありありとあって、もし自分が生徒だとしたら、辛いなあと思いました。と、同時に自分がその場に居合わせる教諭だったとしても、同じように無かったこと・見なかったことにして何もできないかもしれなくて、これって、職員室に限らず、街角でも、電車内でも同じことで、こういうシーンを読むと、自分がされるときのことと、自分がしてしまうときの両方を想像してしまってとても怖くなります。